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第93話 天使を見た

彼女が静かに言った。


「神を受け入れる瞬間ってね、内側に向かって開く扉の前に立てた時なんだと思う」


「どういう意味?」


私は聞いた。


彼女は少し考えてから、ゆっくり言葉を続けた。


「無理に押して向こうへ行こうとしても、その扉はびくともしないの。


内側にしか開かない扉だから」


波の音が、静かに足元へ寄せては返していた。


「一歩下がって、神様に委ねる時、


神様の方から扉を開いて来てくれるんだと思う」


私は黙って聞いていた。


「人にできることって、その扉の前に立つことだけなんじゃないかな。


『私はここにいます』


『私は心を開いています』


それだけでいいと思う」


彼女は海を見つめたまま言った。


「神様には、駆け引きも、ごまかしも通用しない。


本当の気持ちしか受け取らないと思う」


そして、優しい目をした。


「受け入れられる時、人はもう二度と迷子にならない。


孤児にもならない。


永遠に神様の子どもになるの」


私は考えていた。


彼女が言う神様は、老人が言っていた神様と同じだ。


宇宙の法則のような無機質なものではない。


生きている神なんだ。


そうじゃなければ、『神の子ども』という言葉は意味を失ってしまう。


私が聞いた。


「質問、いい?」


「うん」


「神様って……


神の子どもじゃない人は愛してくれないの?」


彼女は迷わず答えた。


「同じように愛してくれてると思う」


「そう……」


私は少し考えた。


「それなら、神の子どもになる必要はないんじゃない?


同じなら……」


彼女は優しい目で私を見た。


「そう思う?」


そして静かに続けた。


「一度も会ったことがない人が、どこか遠くであなたを愛してるとしても、


心は満たされる?」


私は答えられなかった。


「たぶん、満たされないと思う。


愛されていることが分からないから」


波の音だけが聞こえる。


「神様なんて信じられない。


どうでもいいって思っている間は、


愛されていても何も感じないし、分からない」


少し考えるようにして言った。


「これ、私の体験だから、違う人もいるかもしれないけど……」


そして、自分の胸に手を当てる。


「でも今は分かる。


私が神様を恨んでいた時も、


ずっと愛してくれていたんだって」


私は思わず息を呑んだ。


「私が信じたから愛してくれたんじゃない。


もしそうなら、それって無条件の愛じゃなくなるでしょ」


私は驚いていた。


この知恵みたいな言葉は、


もともと彼女の中にあったものとは思えなかった。


人が、自分の力だけで、一晩でここまで変われるとは思えない。


私はもう一度聞いた。


「まだ聞いてもいい?」


「うん」


「私が聞いた『休ませてあげます』って言葉……


神様からだと思う?


神様が、自分を信じてない人に声を聞かせることなんてあるのかな」


彼女は少しも迷わなかった。


「必要なら、神様は何でもしてくれると思う」


そして、小さな声で続けた。


「ひとり子を十字架にかけてくださったくらいだから」


「私、十字架のこともあまり分かってないけど……」


「私も全部は分からないよ。


中学と高校で礼拝とか聖書の授業があったから少し知ってるだけ」


そう言って、彼女は海の方へ視線を向けた。


「でも、あの屋上ではっきり『信じます』って言った時、


私は新しく生まれ変わったんだって分かった」


「そんなにはっきり分かったんだ」


彼女は優しい目をした。


「うん……」


少しだけ空を見上げる。


「言葉にできないくらい、大きな何かがあったの」


私は感じていた。


私と彼女の間には、確かに見えない境界線がある。


それは認めなければならない。


でも、不思議だった。


さっきまであった嫉妬みたいな気持ちは、もう消えていた。


その代わりに、胸の奥から今まで知らなかった感情が芽生えていた。


こんな近くに、本当の神の子どもがいる。


そんな気持ちだった。


海の風も、波の音も、潮の香りも、


全部が優しかった。


彼女がまた手を差し出した。


「握手しよう」


私も手を伸ばした。


彼女の握手は、驚くほど力強かった。


そして、もう片方の手をそっと重ねる。


彼女が言った。


「私、なんでもするから」



その言葉に、

一気に涙が溢れ出した。



神の子どもは、天使みたいな表情で、私を見つめている。

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