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第92話 砂をにぎる

夕陽が水平線の向こうへ沈んでゆく。


オレンジ色の空に、ゆっくり紫が溶け込んでいく。

波の音まで静かになったように感じた。


地球が自転していることが、よく分かる。


オレンジ色の光は、

ゆっくり次の場所へ移動してゆく。


沈みゆく夕陽を見つめながら、彼女が言った。


「もう、ほかの誰かの家庭を羨ましいと思う気持ちはなくなったの。本当に」


カールの首に両手を回し、

彼女はきれいな涙を流していた。


「自分が神の子どもになったことが、嬉しくてたまらない。

クリスチャンの人たちが、どうして“天のお父さん”みたいに祈るのか、やっと分かったの」


彼女の言葉が続く。


「人って、自分のルーツを見失うと、まっすぐ歩けなくなると思う。

“自分が誰なのか”って、本当に大切だから」


彼女は、

内側から別人のように変わってしまっていた。


私は聞いた。


「神の子どもって、どういうこと?

なんでそう思うの?

人間って、みんな神の子どもなんじゃないの?」


「……違う。そうじゃない」


「分かるように教えて。

私も“神の子ども”って思っていいの?」


彼女は少しだけ黙ったあと、

はっきり言った。


「……違う。

あなたは、まだ神の子どもじゃない」


血の気が引くほどの衝撃を受けた。


“あなたは神の子どもじゃない”


その言葉が、

まるで私の存在そのものを拒絶したように響いた。


沈黙が続く。


「……怒った?」


「怒ってないけど、気分は良くない」


「友達じゃなかったら、こんなにはっきり言わなかったと思う」


「……」


今日はもう冷静になれないかもしれない。


怒りというより、

ショックだった。


彼女がそんなことを言うとは思わなかった。


私は言った。


「怒ってない。でも、やっぱり気分は良くない。

“あなたは神の子どもじゃない”って言われたんだから」


でも彼女の目は、

ちゃんと友達を見る目をしていた。


優しい声で言う。


「でも、私はちゃんと答えたかったの。

嘘はつきたくなかった」


カールが、

私たちの空気の変化に気づいている。


困ったような顔をしていた。


彼女が静かに続けた。


「私、昨日あの屋上で、神様を信じますって口に出したの」


波の音が聞こえる。


「その時、気づいたの。

私はずっと、“あなたなんか私の神様じゃない”って言い続けてきたんだって」


彼女は涙を浮かべながら言った。


「拒絶していたのは、神様じゃなかった。

私の方だったの」


夕陽の最後の光が、

彼女の横顔を照らしていた。


「あなたには、あなたの時があると思う。


“あなたは私の神様です”って、

心が告白する時が来たら、

その時に関係は修復されて、

あなたは神の子どもになるんだと思う」


少し考えてから、

彼女は言葉を探すように続けた。


「結婚の誓いに少し似てるのかもしれない。


“あなたを夫と認めます”

“あなたを妻と認めます”


その告白があるから、

夫婦になるでしょう?」


波が静かに砂浜へ押し寄せる。


「だから、

まだその時じゃないなら、

まだ告白していないなら、

あなたはまだ“子ども”ではないんだと思う」


彼女は、

目に涙をいっぱい溜めながら、

自分が信じていることを、

まっすぐ伝えてくれた。


いっさい、

はぐらかすことはなかった。


私は自分が恥ずかしくなって、

砂を強く握った。

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