第91話 彼女の解放
私は涙を拭いながら言った。
「……もみじ、吹くね」
「うん」
私はハーモニカを口に当てる。
♪秋の夕日に照る山もみじ
♪濃いも薄いも数ある中に
♪秋を彩る楓や蔦は
♪山のふもとの裾模様
彼女が、ハーモニカに合わせて優しく歌ってくれる。
私は吹きながら考えていた。
濃い紅葉もあれば、薄い紅葉もある。
同じ光を浴び、同じ水を吸っていても、それぞれ違う色で山を彩っていく。
人も同じなんだ。
彼女が言っていたように、
私には私のトンネルがあり、出口がある。
そして、私の“時”がある。
胸の奥にかかっていた焦りの霧が、少しずつ晴れていくのを感じていた。
歌詞が、別の角度から心へ入ってくる。
それでいいんだ。
私は私でいい。
無理に彼女と同じにならなくてもいい。
「あなた、少しハーモニカ上手くなってる」
彼女が笑う。
私は嬉しくなって、続けて老人が吹いていた「犬のおまわりさん」を吹いてみた。
♪迷子の迷子の子猫ちゃん
♪あなたのお家はどこですか
彼女が、また小さな声で歌ってくれる。
歌詞が、不思議なくらい胸に沁みてきた。
私は今、
“帰る場所”を探しているのかもしれない。
天のふるさと――
私は、迷子の子猫なんだ。
そう思った瞬間、
理解の扉が、ひとつずつ開いていくような感覚があった。
私はハッとした。
歌には、こんなにも深い意味が込められていたんだ。
「ふるさと」と「もみじ」は、岡野貞一さんというクリスチャンが作曲した歌だった。
そして、「犬のおまわりさん」も、大中恩さんというクリスチャンの作曲だ。
歌詞を書いた人は違っていても、
神様は、クリスチャンたちを通して、歌の中に何かを語り続けていたのかもしれない。
私は今まで、ただ懐かしい歌として聴いていた。
でも違った。
歌の奥に、
“帰る場所がある”
というメッセージが、ずっと流れていたんだ。
以前、お風呂に浸かりながら、この歌を思い出して泣いたことがあった。
その時の感覚が、鮮やかに蘇ってくる。
歌詞が、心のひだへ静かに入り込んでいく。
すると彼女が言った。
「神様のもとへ帰る時、
人は迷子じゃなくなるんだよ。
神様の子どもになるの」
私は、その言葉に息を呑んだ。
まるで、神様に語りかけられているみたいだった。
“あなたのお家はどこですか?”
そう問いかけられているように思えた。
それはきっと――
私が本当に帰るべき場所のことなんだ。
彼女を見ていると、それがよく分かる。
“信じる”とは、
内側から外側へ解放されること。
彼女が言っていた言葉の意味が、少しずつ分かり始めていた。
私は、あの老人の笑顔を思い出していた。
夕陽に照らされた、日焼けした顔。
あの笑顔は本物だった。
怒りという鎖から、解き放たれた人間の顔だった。
老人も、彼女も――
狭く閉ざされた場所から、外へ出たんだ。
そう考えないと、説明がつかなかった。
彼女が言う。
「私、もう何も怖くないの。
不思議なくらい、自分が誰なのか分かる。
神様の子どもなんだって思える。
ちゃんと居場所がある。
天のふるさとも与えられてる」
彼女は、自分でも驚いているようだった。
「何が起きたんだろう。
なんて言えばいいんだろう……」
でも、その顔には、
抑えきれない喜びが溢れていた。
私は、彼女が歩いてきた長く暗いトンネルを思った。
そして、中学生の頃に読んだ ヴィクトール・フランクル のことを思い出していた。
夜と霧 の中で、
“苦しみを知っているからこそ、解放や幸福を深く感じられる”
そんなことが語られていた気がする。
彼女も、老人も、まさにそうだった。
彼女の喜びは、カールにも伝わっているのだろうか。
尻尾が千切れそうなくらい激しく揺れている。
飛び跳ねながら、嬉しそうに私たちの周りを回っていた。




