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第90話 トンネルと出口

私は、まるでスローバラードみたいに、ゆっくりしたテンポで「ふるさと」を吹いていた。


どうしてそんな吹き方になったのか、自分でも分からない。


たぶん――


せっかく友達になれた彼女との間に、埋められない何かを感じてしまったからだと思う。


悲しいとか、寂しいとか、そういう感情とは少し違う。


分かり合えない感じ――


文化も生活習慣もまるで違う、外国の人と向き合っているような感覚だった。


そう。


私は、彼女の変わり方に驚いていたのだ。


彼女はもう、自分を縛っていたものを、すべて脱ぎ捨ててしまったような顔をしている。


枯れ切っていた心が、はっきり潤されているのが分かった。


私は、


“もう彼女のために出来ることはない”


そう思い知らされていた。


彼女が満たされていくことは、本当なら嬉しいはずなのに――


曲を吹き終えた私は、思わず俯いてしまった。


「どうしたの?」


彼女が、不思議そうに私の顔を覗き込む。


普段の私なら、


“なんでもない”


と笑ってごまかしていたと思う。


でも私は、隠さず言ってみた。


「あなたが、“神様を信じて生きる”って決めてから……


なんだか、置き去りにされたみたいに感じてるの」


彼女は黙って聞いている。


「私は、まだ神様を信じてるとは言えない。


だから、あなたと根本的に違う場所に立ってしまった気がしてる。


それを、素直に受け入れられない感じ」


彼女は、静かに頷いた。


「あなたって、本当に正直な人だと思う。


それに、感受性が豊かで、すごく繊細」


少し笑って続ける。


「私が羨ましいと思ってるものを、あなたはいっぱい持ってる」


「羨ましい? どういうところ?」


彼女は、少し遠くを見るような目になった。


「優しい人たちに守られて育ってきたところ。


あなたには、ひねくれたところが全然ない」


そして、小さく笑う。


「私は、そうじゃない。


昨日、お風呂で私の身体のあざ、見たでしょ。


あれ、身体だけじゃないの。


心もずっと、あざだらけだった。


そんな人生だったから――


ひねくれない方が難しいよ」


波の音だけが、静かに聞こえていた。


彼女は続ける。


「でも、私は本当に変わったと思う。


神様を信じて生きるって決めてから、自分でも驚くくらい変わった。


神様が、私の中へ来てくれたような感じがしてる」


そして、私を見た。


「あなたが正直に話してくれたから、私も正直に言っていい?」


「うん。聞かせて」


「あなたには、あなたの時がちゃんとある。


神様が訪れてくださる時がある。


本当にそう思ってる」


私は黙って聞いていた。


「それにね。


あなたと出会わなかったら、私は神様のところへ来ることはなかった。


あのノートを聞かせてもらわなかったら、


私は今も、神様を知らないままだったと思う」


彼女は、はっきり言った。


「だから、あなたと会わせてくれたのは神様だった。


私は、そう思ってる」


嬉しかった。


やっぱり――


相手を傷つけないことなら、


思っていることも、感じていることも、ちゃんと伝えるべきなんだ。


そうしないと、表面的な会話しか出来ない。


本当の意味で、お互いの力になれない気がした。


私は彼女に聞いてみた。


「聞いてみたいことがあるの。


あなたは、どうしてそこまで神様を信じられるようになったと思う?


何が決定的だったの?」


彼女は少し黙ったあと、静かに話し始めた。


「今までの話でも分かると思うけど……


私は、家庭環境がよくなかったの」


少し俯く。


「ごめんね。


詳しくは、まだ言いたくない」


私は黙って頷いた。


「だから私は、当然みたいに“神様なんていない”って思いながら生きてきた。


優しい家族がいる友達を、ずっと羨ましく見てた。


なんで私は、こんな家に生まれたんだろうって、


いっぱい泣きながら生きてきた」


彼女は、波打ち際を見つめていた。


「気づいたら、神様を恨むようになってた」


私は、あの老人のことを思い出していた。


「老人とは少し違うけど……


悔しさは、すごく分かった。


だって、本当に神様がいるなら、


全部、神様次第じゃない?


神様なら、どうにでも出来るはずって思ってた。


だから、神様を恨みながら生きてきたの」


波が、静かに足元へ寄せてくる。


「でもね。


神様を恨んでも、何も変わらなかった。


むしろ、どんどん悪くなっていった。


心は崩れていった。


そして、終点があの屋上だった」


彼女は、ゆっくり私を見る。


「私の場合は、あの老人と同じだった。


“恨み”っていうトンネルを通って、神様と出会ったの」


そして、少し笑った。


「でも、あなたは違う。


あなたには、別のトンネルがある」


私は、その言葉を静かに聞いていた。


「だから、あの老人のノートに、完全には共鳴できないんだと思う。


でも、それは悪いことじゃない」


彼女の声は、穏やかだった。


「あなたには、あなたの時がある。


そして、あなたが通り抜けるトンネルがあって、出口がある」


彼女は、はっきり言った。


「信じようとして頑張っても、信じられるものじゃないと思う。


神様が備えてくださらないと、受け入れられない」


その目には、迷いがなかった。


「私は、“今がその時だ”って、はっきり分かった。


全然、迷わなかった」


そして彼女は、少し照れながら笑う。


「それとね。


あなたと友達になりたいって言ったけど……


その気持ち、もっと強くなってる。


これも神様の導きなのかもしれないって思ってる」


私は胸の奥が熱くなった。


彼女は続ける。


「あなたが感じてるみたいに、“信じる”っていう境界線は、たしかにあると思う。


私はね――


信じる前は、“外”にいるのが今の自分で、


“内”に入るのが信じることだと思ってた」


彼女は、静かに首を振る。


「でも、逆だった。


その一線を越えた時――


初めて“外”へ出られた気がしたの。


自由になれたの」


彼女の目の輝きは、本物だった。


その瞬間――


私が彼女に対して抱いていた言葉を、


今度は彼女の口から聞くことになった。


彼女は、私の目を真っ直ぐ見て言った。


「あなたのためなら、なんでもしたい」


その直後――


夕陽へ向かって、カールが長い遠吠えを響かせた。


私は、また驚かされる。


カールは、どこまで分かっているのだろう。


彼女の微笑みを見ながら、


私は、彼女を通して神と出会っていくのかもしれない――


そんなことを思っていた。


この海岸で私は、もう何度も神の語りかけを受け取っていたのかもしれない。


気持ちのいい風が吹き抜けていく。


私の焦りも、迷いも、


その風が静かに洗い流してくれるようだった。


涙のレンズ越しに見える夕陽が、やわらかく滲む。


その光が、私の心を静かに溶かしていた。

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