第89話 置き去り
翌日――
夕方、約束通り、私たちは二人で海岸まで歩いた。
病院から二十五分ほど。
砂浜へ着くと、私はすぐ靴を脱ぐ。
「裸足になると気持ちいいよ」
彼女も、すぐに靴を脱いだ。
そして、砂の感触を確かめるみたいに、その場で小さく足踏みする。
「気持ちいい……」
「ね、そうでしょ」
私は笑った。
ふと後ろを振り返ると、カールがこちらへ走ってくるのが見えた。
私たちの前まで来ると、その場に座り込み、
はぁ、はぁ……
と息をしている。
きっと看護師さんに、
“見守ってきなさい”
と言われたのだろう。
今日は夜まで仕事だと言っていた。
だから、カールが来たんだ。
私たちは三人で波打ち際まで歩いていった。
膝くらいまで海に入る。
海水が気持ちいい。
カールは最初、じっとこちらを見ていた。
私は、自分が適応障害だったことさえ忘れそうな気分になっていた。
私たちが楽しそうに海へ入っているのを見て、カールも我慢できなくなったのだろう。
勢いよく海へ飛び込んできた。
お腹が水につくくらいまで入ってきて、嬉しそうにはしゃいでいる。
海は穏やかだった。
優しい風が、心をゆっくり溶かしていく。
夕陽が海面を、目に染みるほど綺麗に輝かせていた。
彼女が、カールへパシャパシャと水をかける。
カールも嬉しそうに走り回る。
私は、カールが遊んでいる姿を初めて見た。
本当に楽しそうだった。
見ているだけで、幸せな気持ちになる。
いつものカールは、看護師さんの指示を忠実に待っていた。
“仕事中”だった。
でも今は違う。
ちゃんと楽しんでいる。
私も嬉しくなって、二人でカールを水浸しにした。
カールにも、きっとストレス解消が必要なんだ。
私たちは三人で、思いきり遊んだ。
彼女の透き通るような笑い声と、
カールの、はぁはぁという息遣い。
それが、波の音と混ざって、ひとつのメロディーみたいに聞こえてくる。
人間にも、動物にも、
こういう時間が必要なんだと思った。
しばらく、夢中で遊んでいた。
*
海に入るとは思っていなかったので、タオルは持ってきていない。
彼女は、自分のトレーナーを脱ぎ、カールの身体を拭いてあげている。
カールは気持ちよさそうに、されるがままだ。
彼女が言った。
「ねえ、ハーモニカ聴かせて」
「うん」
私は赤いハーモニカをバッグから取り出した。
すると――
彼女が先に歌い出した。
カールの背中をトントン叩きながら、小さな声で歌っている。
♪うさぎ追いしかの山
♪こぶな釣りしかの川
綺麗な声だった。
彼女は、本当に変わった。
たった一日で、別人みたいに変わってしまった。
彼女が海を見つめながら言う。
「“ふるさと”と“もみじ”って、岡野貞一さんっていうクリスチャンが作曲したんだよね」
「うん」
「この歌の“ふるさと”って、生まれ育った故郷のことだと思う。
でもね――
それだけじゃない気がするの」
私は黙って続きを待った。
「“天のふるさと”って意味もあるのかもしれないって思ったの」
「天のふるさと?」
「うん。
天国のこと。
人間はみんな死ぬでしょ。
その後に帰っていく場所」
波が静かに寄せては返している。
「私、中学と高校がミッション系だったから、そういう話を聞いたことがあるの。
キリスト教では、天国のことを“天のふるさと”って呼ぶことがあるって」
「天のふるさと……」
彼女は、夕陽の向こうを見つめたまま続ける。
「♪こころざしをはたして
♪いつの日にか帰らん――
あれって、“故郷に錦を飾る”って意味だけじゃない気がするの。
地上の歩みを終えて、
帰っていくの。
天に」
私は、彼女の横顔を見つめていた。
彼女は、確かに生まれ変わっていた。
何かが見えている目をしている。
私はハーモニカを咥えたまま、
また、あの感覚に襲われていた。
置き去りにされたような、
静かな寂しさだった。




