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第88話 気高き表情

部屋へ戻ると、彼女がスマホを取り出して言った。


「連絡先、教えてくれる?」


私は躊躇なく答えた。


「スマホ、持ってないの」


「そっか……」


「でも、固定電話はあるから」


そう言って彼女のスマホに手を伸ばし、自分で番号を入力した。


彼女には話しておきたかった。


「あの海岸の防波堤の先で、スマホもタブレットも、ハンマーで壊したの」


彼女は少しだけ目を伏せた。


「……あなたも、いろいろあったんだね」


それ以上は聞かなかった。


「仕事、辞めたって言ってたよね。


明日の夕方、私もあの海岸に行って夕陽を見たい。


いっしょに行こう。


それと、もう一度あそこで『故郷』と『紅葉』、ハーモニカで聴かせて」


「分かった」


彼女は安心したように微笑み、そのまま眠りに落ちていった。


今日、屋上から飛び降りようとしていた人とは思えないほど、穏やかな寝顔だった。


人生の階段を踏み外すことと、踏みとどまること。


その違いは、あまりにも大きい。


自分のことは横に置いても、私は彼女に、神様を信じて、安全な場所まで辿り着いてほしかった。


そして、その場所に留まり続けてほしいと願っていた。


カールも、彼女の横に置かれた自分のベッドで安心したように眠っている。


ももは看護師さんの足元で、お腹を見せたまま眠っていた。


静かな夜だった。



朝の四時頃だったと思う。


ふと目を覚ますと、彼女の姿がなかった。


私は慌ててトイレを確認する。


いない。


看護師さんを起こして叫んだ。


「彼女がいません!」


すると看護師さんはすぐに立ち上がり、


「カール、探せ!」


と言った。


そして私に、


「屋上、見てくる」


とだけ言って走り出した。


私もその後を追う。


屋上へ着くと、カールが柵の前に立ち、まるでゴールキーパーのように身構えていた。


彼女は月明かりに照らされながら、花壇の縁に座っていた。


その目には、涙がいっぱい溜まっている。


看護師さんが近づき、彼女を抱きしめた。


「ごめんね。勝手に心配して」


「ごめんなさい……」


彼女は驚いたような顔で答えた。


私はその場に崩れ落ちるように座り込む。


よかった。


本当に、よかった。


彼女が涙を拭いながら言った。


「ちょっと一人になって、決心したかったの。


私、神様を信じて生きていく。


そのことを、この屋上で神様に報告したかった。


心配かけて、ごめんなさい」


看護師さんが優しく笑う。


「いいよ、いいよ。


カール、おいで。


ありがとね、カール」


その言葉を聞いた瞬間、彼女は確かに“一線”を越えたのだと分かった。


ただ言葉でそう言っただけではない。


彼女の目には、はっきりと“信じる者の眼”が宿っていた。


友だちになれたと思っていた気持ちに、複雑な感情が混ざっていく。


どのように言えばいいのだろう。


神のことを深く考えずに生きてきた者同士。


迷いながら歩いてきた者同士。


そんなつながりが終わりを告げ、もう以前のようには分かり合えないのではないか――


そんな見えない壁が、二人の間に生まれてしまった気がした。


もちろん、私が勝手にそう感じているだけなのかもしれない。


それでも、彼女は明らかに昨日までの彼女ではなくなっていた。


彼女の表情には、信じる者だけが持つ、気高い静けさが宿っていた。


まるで、生まれ変わってしまったかのように。

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