第88話 気高き表情
部屋へ戻ると、彼女がスマホを取り出して言った。
「連絡先、教えてくれる?」
私は躊躇なく答えた。
「スマホ、持ってないの」
「そっか……」
「でも、固定電話はあるから」
そう言って彼女のスマホに手を伸ばし、自分で番号を入力した。
彼女には話しておきたかった。
「あの海岸の防波堤の先で、スマホもタブレットも、ハンマーで壊したの」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「……あなたも、いろいろあったんだね」
それ以上は聞かなかった。
「仕事、辞めたって言ってたよね。
明日の夕方、私もあの海岸に行って夕陽を見たい。
いっしょに行こう。
それと、もう一度あそこで『故郷』と『紅葉』、ハーモニカで聴かせて」
「分かった」
彼女は安心したように微笑み、そのまま眠りに落ちていった。
今日、屋上から飛び降りようとしていた人とは思えないほど、穏やかな寝顔だった。
人生の階段を踏み外すことと、踏みとどまること。
その違いは、あまりにも大きい。
自分のことは横に置いても、私は彼女に、神様を信じて、安全な場所まで辿り着いてほしかった。
そして、その場所に留まり続けてほしいと願っていた。
カールも、彼女の横に置かれた自分のベッドで安心したように眠っている。
ももは看護師さんの足元で、お腹を見せたまま眠っていた。
静かな夜だった。
*
朝の四時頃だったと思う。
ふと目を覚ますと、彼女の姿がなかった。
私は慌ててトイレを確認する。
いない。
看護師さんを起こして叫んだ。
「彼女がいません!」
すると看護師さんはすぐに立ち上がり、
「カール、探せ!」
と言った。
そして私に、
「屋上、見てくる」
とだけ言って走り出した。
私もその後を追う。
屋上へ着くと、カールが柵の前に立ち、まるでゴールキーパーのように身構えていた。
彼女は月明かりに照らされながら、花壇の縁に座っていた。
その目には、涙がいっぱい溜まっている。
看護師さんが近づき、彼女を抱きしめた。
「ごめんね。勝手に心配して」
「ごめんなさい……」
彼女は驚いたような顔で答えた。
私はその場に崩れ落ちるように座り込む。
よかった。
本当に、よかった。
彼女が涙を拭いながら言った。
「ちょっと一人になって、決心したかったの。
私、神様を信じて生きていく。
そのことを、この屋上で神様に報告したかった。
心配かけて、ごめんなさい」
看護師さんが優しく笑う。
「いいよ、いいよ。
カール、おいで。
ありがとね、カール」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は確かに“一線”を越えたのだと分かった。
ただ言葉でそう言っただけではない。
彼女の目には、はっきりと“信じる者の眼”が宿っていた。
友だちになれたと思っていた気持ちに、複雑な感情が混ざっていく。
どのように言えばいいのだろう。
神のことを深く考えずに生きてきた者同士。
迷いながら歩いてきた者同士。
そんなつながりが終わりを告げ、もう以前のようには分かり合えないのではないか――
そんな見えない壁が、二人の間に生まれてしまった気がした。
もちろん、私が勝手にそう感じているだけなのかもしれない。
それでも、彼女は明らかに昨日までの彼女ではなくなっていた。
彼女の表情には、信じる者だけが持つ、気高い静けさが宿っていた。
まるで、生まれ変わってしまったかのように。




