第87話 四角い夜空
彼女が、カールの背中を優しく撫でている。
カールも、気持ちよさそうに目を細めていた。
やがて彼女が、ゆっくり話し始める。
「私、“証拠はいらない”って言ったけど……
本当は、もう十分すぎるほど与えられていたのかもしれない」
私は黙って聞いていた。
「看護師さんや、あなたに出会えたこと。
老人のノート。
それに、ももとカール。
あの子たちがいなかったら、私はもうここにはいなかったと思う」
彼女は夜空を見上げた。
「それにね……
自分が育ってきた家庭環境でさえ、神様のところへ来るためだったんじゃないかって、今は思えるの。
だから、本当はもう、証拠は十分すぎるくらいあったのかもしれない」
私は胸の奥が静かに揺れるのを感じていた。
彼女は続ける。
「この短い時間の中で、あなたたちに出会えたことも、偶然だとは思えない。
それに、本音を言うと――」
少し間を置いて、私を見た。
「“神様なんていない”って思いながら、生きていく自信が、もうないの。
神様に助けてもらえないなら。
守ってもらえないなら。
私の場合、終点がどこにあるのか、もう見えてしまってる」
その声は、静かだった。
でも、強かった。
「神様を信じる人は弱いって言う人もいるけど……
私には、ちゃんと当てはまる。
私は弱い。
本当のことだから」
彼女は、まっすぐ前を見た。
「だから、神様に全部委ねて生きていきたい。
“現実から逃げてる”って思われてもいい。
でも私は、神様こそ現実だと思ってる。
だから私は、現実と向き合おうとしてる」
そして、小さく笑った。
「これが、今の私の本当の気持ち」
再び、夜空を見上げる。
「ああ……気持ちいい」
彼女は、ゆっくり息を吐いた。
「自分の本当の気持ちを、ちゃんと言葉にするって、こんなに気持ちいいんだね」
少し黙ってから、私を見た。
「不思議だよね。
神様の声を聞いたこともない私が、“信じたい”って思ってて――
あなたは、“休ませてあげます”って声を実際に聞いたかもしれない。
そのうえ、やすらぎまで体験してる。
でも、それでいいと思う」
彼女は、穏やかな顔で続けた。
「あなたには、あなたの時がある。
だから、あなたは自分の心に従うべきだと思う」
ドキッとした。
彼女の言う通りだった。
私は、私の心に従うべきなんだ。
私の苦しみは、まだ“そこ”まで達していない気がする。
そこが、彼女との違いだった。
私には、愛してくれる母がいる。
優しい父もいる。
助けてもらえている。
そこが決定的に違う。
彼女には――
味方がいない。
詳しくは聞いていない。
でも、おそらく間違いなかった。
病院へ押しかけるように来た、あの女性も。
彼女にとっては、味方ではなかった。
それだけは、はっきり分かっていた。
*
彼女が、ふいに聞いた。
「家族に愛されて育ってきたでしょ?」
また、ドキッとした。
本当に鋭い人だ。
彼女は、小さく笑う。
「私、愛に飢えて育ってきたから……
そういうの、分かっちゃうの」
私は、何も言えなかった。
「でもね、今は悔しくない。
悲しくもないの。
私には、通らなきゃいけない道だったんだって思えるから」
彼女は、真っ直ぐ私を見る。
「それに――
あなたが、自分宛てに書かれたノートを聞かせてくれたこと、本当に感謝してる」
そして、少し照れたように笑った。
「もう一回言うね。
あなたと友達になりたい。
心から、そう思ってる」
嬉しくて、声にならなかった。
私は、生まれて初めて、
“本当の友達ができた”
そう思えた。
私は大きく頷く。
カールが、左右の眉を交互に動かしながら、私たちを見つめていた。
その時――
看護師さんが、ももを抱いて戻ってきた。
手には、アップルティーが三つ。
それから、カールともものミルク。
「眠れなくなったら困るから、ノンカフェインね」
そう言って、私たちに差し出してくれた。
「ありがとうございます……美味しい」
彼女が小さく言う。
リンゴの甘い香りが、胸の奥へ静かに沁み込んでくる。
忘れかけていた“幸せ”の感覚を、思い出させてくれるようだった。
本当に、美味しかった。
私は、まだ神を信じてはいない。
でも――
生まれ変わったみたいな気持ちに包まれていた。
その時、彼女が手を差し出してくれた。
私も、そっと手を伸ばす。
静かな握手だった。
看護師さんが、嬉しそうに微笑む。
「いい時間が過ごせたみたいね」
その笑顔は、これ以上ないほど優しかった。
潮の香りと、柔らかな風が、四角い夜空から吹き下ろしてくる。
私は、夢を見ているような気持ちになっていた。
彼女のために何かしてあげたいと思っていたのに――
気づけば、救われていたのは私の方だったのかもしれない。
不思議な期待感が、胸いっぱいに広がっていく。
上から吹き下ろしてくる風が、こんなにも気持ちいいなんて、私は知らなかった。




