第85話 夜空にウインク
看護師さんが、そっと彼女の近くまで来て聞いた。
「あのノート、どう思った?」
彼女が答える。
「看護師さんは、神様を信じているんですか?」
線香花火は魔法みたいだった。
私たちの心をゆっくりほどいて、本音の会話へ導いてくれる。
看護師さんが、少し考えるように空を見上げる。
「人の命とか死について考えることって、若くても必要なことだと思うの。
私は、神様はいる気がしてる。
でも、本当のことはまだよく分からない。
特定の宗教を強く信じてるわけでもないしね。
ただ――
ちゃんと向き合ってみたいとは思ってる」
彼女が今度は私を見る。
「あなたは?
神様、信じたい?」
「……分からない」
私は正直に答えた。
すると彼女が、静かに言った。
「私は、神様を信じて生きていきたい。
今、心からそう思ってる」
線香花火の火が、彼女の瞳の中で揺れていた。
「時間をかけて考えても、“神様がいる証拠”なんて、たぶん見つからないと思う。
でも、私は証拠なんかいらない」
その声には、迷いがなかった。
「神様が愛してくれる。
それが分かれば、生きていける。
私は、それだけでいい。
愛してくれるなら、それだけで生きていける」
彼女のまっすぐな表情を見て、看護師さんも少し驚いたような顔をしていた。
私は、その変化の速さに少し戸惑ってしまう。
神を信じる瞬間というのは――
もしかしたら、こういうものなのかもしれない。
彼女には、“証拠を探そう”という姿勢がほとんどない。
迷って立ち止まっている時間もない。
条件は、たったひとつだった。
愛してくれること。
それだけなのだ。
それこそが、彼女の本当に欲しかったものだった。
私はふと思う。
私が望んでいたのは、
“普通に生きていける力”
“苦しまずに現実を生きる力”
そういうものだった。
でも彼女が求めているものは、もっと深い場所にある。
次元そのものが違う気がした。
彼女が、自分で次の線香花火に火をつける。
花火に照らされた横顔に、どこか気高いものを感じた。
もう迷いはないように見える。
彼女は、このまま真っ直ぐ信じていくのだろう。
私が彼女にしてあげられることは、もう何もない気がした。
そして――
胸の奥に、少しだけ嫉妬に似た感情が芽生えていることに気づく。
置いていかれてしまったような感覚だった。
*
中庭は吹き抜けになっていて、夜空が四角く切り取られて見えていた。
私は、上を見上げる。
私が見えている世界も、きっとこれと同じなんだ。
ほんの一部しか見えていない。
この四角い空から太陽や月が見えないからといって、
“存在しない”
と考えるのは、やっぱり違うのかもしれない。
しゃがみ込んで花火を見つめている彼女の背中へ、ももが飛び乗った。
そのまま肩まで登り、身体を預けている。
すると今度は、カールが私の横へ来てくれた。
私は少し嬉しくなった。
カールは、私より彼女の方が好きなんだと思っていたから。
それに私は、彼女の純粋さにどこか負けた気がして、少し気後れしていた。
カールは、そんな私の気持ちを見透かしたのだろうか。
その匂いを感じ取ったのかもしれない。
カールの目は、とても優しかった。
看護師さんが言う。
「余った花火は、また今度にしようか」
そして私たち二人を見ながら、少し泣きそうな笑顔で言った。
「一人ずつ、ハグさせてもらっていい?」
彼女は少し驚いた顔をした。
看護師さんは、そっと近づいて、彼女の頭を包み込むように抱きしめた。
彼女の両腕が、看護師さんの腰へしっかり回る。
そして胸に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。
やがて、二人の腕がゆっくりほどける。
二人とも、涙が止まっていなかった。
彼女は肩を震わせながら、声を漏らして泣いている。
その姿を見た瞬間――
私の中で、何かが弾けた。
私は自分から、看護師さんの前へ進んでいた。
看護師さんは、しっかり抱きしめてくれた。
腕が、とても温かかった。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。
すると突然、彼女が後ろから私に抱きついてきた。
彼女の泣き声が、耳の奥へ静かに沁みてくる。
人間には、愛が必要なんだ。
それがなければ、壊れてしまうんだ。
空の雲が少し流れ、星がほんの少しだけ見えた。
でも、またすぐ雲に隠れてしまう。
「ウインクみたい!」
彼女が言った。
そして涙を拭きながら、小さくウインクを返していた。




