第84話 線香花火
彼女が少し近づいてきて、私の目をまっすぐ見つめた。
「あの老人、耳が聞こえないのよね。
でも、“休ませてあげます”って声を聞いたんだよね」
「うん。そう言ってた。嘘はついてないと思う」
「だとしたら、人間の声じゃないってことだよね」
「うん。
私が聞いた時も、周りには誰もいなかった。
老人はいたけど、離れていたから絶対に老人の声じゃない。
それに、老人は耳が聞こえなかったから、話し方にも特徴があったの。
私は何度も老人の声を聞いてる。
だから、まったく違う声だったことは間違いない」
彼女は、静かに聞いていた。
「あなたがその声を聞いた時、どんな声だった?
知ってる人の声だった?」
「聞いたことのない声だった」
「……もっと聞いていい?」
「うん。何でも聞いて」
彼女は、少しだけためらうようにしてから言った。
「その時、あなたも水の匂いを感じたの?」
「感じた。
それも間違いない。
海の潮の匂いじゃなかった。
山の清流みたいな、真水の匂いだった」
「――そうなんだ……」
彼女は考え込むように黙ってしまった。
私も窓の向こうを見る。
夕陽が、いつもより優しい光に見えた。
私たちはしばらく黙ったまま、海の向こうへ沈んでいく夕陽を眺めていた。
やがて、彼女がぽつりと口を開いた。
「神様って、本当にいるのかな……」
その声は、小さかった。
「いてほしい。
そして、守ってほしい。
私も、不思議とか奇跡を感じてみたいって思う。
でも――」
彼女は少し俯いた。
「それより、愛してほしい」
私は黙って聞いていた。
「神様に愛してもらいたい。
ちゃんと分かるように。
私が実感できる形で、愛してほしい」
涙が頬を伝い、顎へ集まっていく。
「愛してもらえるなら……生きていける」
その涙が、ぽたりと床に落ちた。
カールが、自分で噛んだ彼女の足首へ鼻を近づける。
そして、
クーン……クーン……
と、小さく鳴いた。
彼女の飢え渇いた心を、感じ取っているのかもしれなかった。
その時――
コンコン、とノックの音がした。
看護師さんが戻ってきた。
手には、線香花火を持っている。
「動物って、火を怖がるでしょ。
でもね、ももとカールは線香花火を怖がらないの」
看護師さんが笑う。
「この病院のナースたち、時々中庭で線香花火するの。
私も好きで、よくみんなとやってる」
線香花火を見つめながら、続けた。
「私はね、線香花火の匂いが好きなの。
子どもの頃を思い出して、なんだか安心するから」
彼女が涙を拭きながら言った。
「やりたい……」
看護師さんが、すぐに笑った。
「じゃあ、みんなでやろう」
彼女は、ももを抱きかかえる。
私たちは一緒に、一階の中庭へ降りていった。
「線香花火なんて、何年ぶりだろう。
小学生以来かもしれない」
私がそう言うと、
彼女は目を輝かせた。
「私、花火するの、生まれて初めて」
私は言葉を失った。
看護師さんも、少しだけ驚いた顔をしている。
彼女の家庭環境の複雑さが、ふと垣間見えた気がした。
看護師さんが、一人ずつ線香花火を配ってくれる。
「一本ずつね。いい?
火、つけるよ」
その瞬間、彼女の表情が少女のようになった。
線香花火が、パチパチと小さな音を立てる。
白い煙。
やわらかなオレンジ色の光。
それらが、中庭の夜を静かに彩っていく。
誰の言葉だったか思い出せない。
“幸せは、なるものじゃなくて、見つけるもの”
そんな言葉を、昔どこかで聞いたことがある。
――こういうことなのかもしれない。
少女のようになった彼女の表情が、少しずつ穏やかになっていく。
線香花火の光が、下から彼女の顔を照らしていた。
涙を浮かべた目が、綺麗だった。
オレンジ色の火の玉が、その瞳の中で静かに揺れている。
彼女が神を信じる日は、もう遠くないのかもしれない。
その横顔は――
まるで天使のようだった。




