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第83話 彼女の気持ち

長い朗読が、終わろうとしていた。


老人の物語は、世代の違う私たちの心を、大きく揺さぶった。


戦争の残酷さ。

怒り。

神に対する憤り。


生きたくても、生きられなかった命――


*


看護師さんが、ゆっくりノートを閉じた。


「少し、外の空気を吸いたくなったから」


それだけ言って、静かに部屋を出ていった。


私たち二人だけの時間を、作ってくれたのだと思った。


彼女は窓辺に立ち、駅の向こうに見える海を眺めている。


振り向かないまま、ぽつりと話し始めた。


「私ね、気づいたことがあるの。


あなたには分かる気がするから、言ってみるね」


「食べ物に匂いがあるみたいに、人の心にも匂いがあるんだって分かったの」


私は、老人のノートの話をするのだと勝手に思っていたので、少し意外だった。


黙ったまま、続きを待つ。


「安らぎの匂い。

悲しみの匂い。

恐れの匂い――


それから、“緊急事態”の匂い」


窓から入る夜風が、彼女の髪を静かに揺らしていた。


「カールは、たぶんそれを嗅ぎ分けてる。


あなたがハーモニカを吹こうとした時も、カールは、あなたの迷いの匂いを感じ取ったんじゃないかなって。


だから、あの最初の遠吠えは――


あなたの背中を押すためだったのかもしれない」


少し間を置いて、彼女は続けた。


「でもね……


カール自身も驚いてたように、私には見えたの」


「驚いてた?」


「うん。


あの遠吠えは、カールの意思だけじゃなかった――


そんな気がしたの。


ただの勘違いかもしれないけど」


「どういうこと?」


私は、彼女が何を言おうとしているのか分からなかった。


彼女は、ゆっくり振り返った。


「神様が、カールに働きかけたんじゃないかってこと」


彼女の考えは、私より先を歩いていた。


「実はね。


私、柵に足をかけた時、自分を見失ってた。


うまく言えないけど、“どうにでもなれ”みたいな、投げやりな感じ。


そういう匂いに、自分が包まれてた気がするの。


あの時も、カールはそれを嗅ぎ取ってたんじゃないかなって」


そこで彼女は、カールを見つめた。


「飛び降りようとした時、カールが私の足を噛んで止めてくれたでしょ。


でも実は、あの時、噛まれた感じがしなかったの」


「えっ……」


思わず声が漏れた。


「人の手だった。


人間みたいな手が、両手で優しく包んでくれた感じだったの」


彼女は、自分の足首をそっと撫でる。


「あとで治療してもらった時、歯が深く食い込んでて、血もなかなか止まらなかった。


だから、本当はカールが噛んでたんだと思う。


でも――


あの瞬間だけは、手だった。


ちゃんと、手が掴んでくれてたの。


嘘じゃないよ。本当」


私は驚いていた。


でも、不思議と――


彼女の言葉を疑う気持ちにはならなかった。


彼女の話を聞きながら、私も思い出していた。


スマホを壊して、しばらく経った頃――


景色にも匂いがあることに気づいた時のことを。


そして、人の喜びや恐れにも、匂いがあることを。


もしかしたら、カールは、それを証明してくれたのかもしれない。


彼女が、小さく言った。


「ちょっと聞いてもいい?


“何も聞かない”ってルールだったけど……いい?」


「いいよ。何でも」


彼女は、少し真剣な顔になる。


「“休ませてあげます”っていう声――


本当だったの?


本当に聞こえたの?」


「はっきり聞こえた。


二回、聞いた」


彼女は、息を止めたような顔をした。


「……神様の声だと思う?」


「それは分からない。


でも、あの日は、適応障害の症状がひどかったの。


動けないくらいだった。


ほら、見えるでしょ。


あそこの海岸」


私は窓の外を見ながら続けた。


「砂浜に座っていたけど、身体が倒れないように、両手を砂につかなきゃ支えられないくらい、ひどい状態だった。


でも、“休ませてあげます”って声を聞いた後――


何かが変わったのは分かった。


劇的に治ったとかじゃない。


でも、やすらぎに包まれていく感じがあったの」


「そう……」


彼女は静かに聞いていた。


「しかもね。


私より前に、あの老人も同じ声を聞いてた。


老人は、“世界中の人がその声を聞いている”って言ってた」


彼女は、少し考え込むように目を伏せた。


「私は聞いたことない。


神様のことも、ちゃんと考えたことない。


でも――


“神様なんていない”って思って生きることには、もう限界がきてる。


これが、今の私の本当の気持ちみたい」

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