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第83話 彼女の気持ち

長い朗読が、終わろうとしていた。


老人の物語は、世代の違う私たちの心を、大きく揺さぶった。


戦争の残酷さ。

怒り。

神に対する憤り。


生きたくても、生きられなかった命――



看護師さんが、ゆっくりノートを閉じた。


「少し、外の空気を吸いたくなったから」


それだけ言って、静かに部屋を出ていった。


私たち二人だけの時間を、作ってくれたのだと思った。


彼女は窓辺に立ち、駅の向こうに見える海を眺めている。


振り向かないまま、ぽつりと話し始めた。


「私ね、気づいたことがあるの。


あなたには分かる気がするから、言ってみるね」


「食べ物に匂いがあるみたいに、人の心にも匂いがあるんだって分かったの」


私は、老人のノートの話をするのだと勝手に思っていたので、少し意外だった。


黙ったまま、続きを待つ。


「安らぎの匂い。

悲しみの匂い。

恐れの匂い――


それから、“緊急事態”の匂い」


窓から入る夜風が、彼女の髪を静かに揺らしていた。


「カールは、たぶんそれを嗅ぎ分けてる。


あなたがハーモニカを吹こうとした時も、カールは、あなたの迷いの匂いを感じ取ったんじゃないかなって。


だから、あの最初の遠吠えは――


あなたの背中を押すためだったのかもしれない」


少し間を置いて、彼女は続けた。


「でもね……


カール自身も驚いてたように、私には見えたの」


「驚いてた?」


「うん。


あの遠吠えは、カールの意思だけじゃなかった――


そんな気がしたの。


ただの勘違いかもしれないけど」


「どういうこと?」


私は、彼女が何を言おうとしているのか分からなかった。


彼女は、ゆっくり振り返った。


「神様が、カールに働きかけたんじゃないかってこと」


彼女の考えは、私より先を歩いていた。


「実はね。


私、柵に足をかけた時、自分を見失ってた。


うまく言えないけど、“どうにでもなれ”みたいな、投げやりな感じ。


そういう匂いに、自分が包まれてた気がするの。


あの時も、カールはそれを嗅ぎ取ってたんじゃないかなって」


そこで彼女は、カールを見つめた。


「飛び降りようとした時、カールが私の足を噛んで止めてくれたでしょ。


でも実は、あの時、噛まれた感じがしなかったの」


「えっ……」


思わず声が漏れた。


「人の手だった。


人間みたいな手が、両手で優しく包んでくれた感じだったの」


彼女は、自分の足首をそっと撫でる。


「あとで治療してもらった時、歯が深く食い込んでて、血もなかなか止まらなかった。


だから、本当はカールが噛んでたんだと思う。


でも――


あの瞬間だけは、手だった。


ちゃんと、手が掴んでくれてたの。


嘘じゃないよ。本当」


私は驚いていた。


でも、不思議と――


彼女の言葉を疑う気持ちにはならなかった。


彼女の話を聞きながら、私も思い出していた。


スマホを壊して、しばらく経った頃――


景色にも匂いがあることに気づいた時のことを。


そして、人の喜びや恐れにも、匂いがあることを。


もしかしたら、カールは、それを証明してくれたのかもしれない。


彼女が、小さく言った。


「ちょっと聞いてもいい?


“何も聞かない”ってルールだったけど……いい?」


「いいよ。何でも」


彼女は、少し真剣な顔になる。


「“休ませてあげます”っていう声――


本当だったの?


本当に聞こえたの?」


「はっきり聞こえた。


二回、聞いた」


彼女は、息を止めたような顔をした。


「……神様の声だと思う?」


「それは分からない。


でも、あの日は、適応障害の症状がひどかったの。


動けないくらいだった。


ほら、見えるでしょ。


あそこの海岸」


私は窓の外を見ながら続けた。


「砂浜に座っていたけど、身体が倒れないように、両手を砂につかなきゃ支えられないくらい、ひどい状態だった。


でも、“休ませてあげます”って声を聞いた後――


何かが変わったのは分かった。


劇的に治ったとかじゃない。


でも、やすらぎに包まれていく感じがあったの」


「そう……」


彼女は静かに聞いていた。


「しかもね。


私より前に、あの老人も同じ声を聞いてた。


老人は、“世界中の人がその声を聞いている”って言ってた」


彼女は、少し考え込むように目を伏せた。


「私は聞いたことない。


神様のことも、ちゃんと考えたことない。


でも――


“神様なんていない”って思って生きることには、もう限界がきてる。


これが、今の私の本当の気持ちみたい」

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