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第82話 カールの力

あの海岸で起きたことと、同じことが、この部屋で起きている。


この部屋で、奇跡が起きている。


私の下手なハーモニカが、上から与えられたような力を帯びて、彼女の心の襞に触れている。


「ふるさと」の最後のフレーズが終わった。


それでも、カールは遠吠えをやめなかった。


まるで、


「続けて」


そう促しているように思えた。


私は、吹いたことのない「紅葉」をやってみたくなった。


メロディーは知っている。


あの老人が、何度も聴かせてくれた曲だった。


私は目を閉じ、一度、頭の中で旋律をなぞる。


秋の夕日に照る山もみじ――


濃いも薄いも数ある中に――


やってみるんだ。


できる範囲で、やってみるんだ。


カールも、きっと助けてくれる。


私は、音を探すように、間違えながら吹き始めた。


看護師さんが、彼女の背中を優しく叩きながら、静かにリズムを取ってくれる。


彼女も歌詞を知っているようだった。


小さな声で口ずさんでいる。


ハーモニカの音が、カールの遠吠えに飲み込まれていく。


カールは、ますます大きな声で歌ってくれていた。


彼女が、ももを片手で抱きながら、もう片方の腕でカールの首を抱き寄せる。


そして私に言った。


「もう一回……二曲続けて聴かせて」


彼女の中で、何かが変わり始めていた。


そう――


喜びの感情が、見え隠れしている。


軽い笑顔は何度か見せてくれていた。


でも今のは、はっきり“喜び”の笑顔だった。


私は、もっと上手く吹きたかった。


けれど二回目も、一回目と変わらないくらい下手だった。


それでも、看護師さんと彼女は、一緒に歌ってくれる。


二回目の「紅葉」が終わった。


部屋に、不思議な空気が降りていた。


看護師さんが笑う。


「カールが歌うなんて知らなかったわ。初めて聞いた。びっくりよ」


カールは彼女の頬に、何度もキスをしている。


彼女は、本当に嬉しそうだった。


顔が、明るく輝いている。


そして、静かに言った。


「動物が音楽に反応して遠吠えするのは、よくあることみたいです。


でも、さっきカール、ハーモニカが鳴る前に遠吠えした。


それが不思議なの」


確かにそうだった。


私が吹く前に、促すように遠吠えしていた。


そのあとで、私が吹き始めたのだ。


私たちは顔を見合わせ、それからカールを見た。


するとカールは、その瞬間、一番大きな遠吠えを聞かせてくれた。


長く、大きな遠吠えだった。


カールは、どこまで分かっているのだろう。


でも、ひとつだけ確かなことがある。


彼女の中にあった、


“何か大変なことをしてしまいそうな恐れ”


それは、もう消えていた。


彼女が、考え込むように言った。


「本当に不思議。


ハーモニカの音が私の中に入ってきた時、同時に深いやすらぎを感じたの。


太陽の光と熱を溜め込んだ干し草の中にいるみたいな、不思議な安心感だった。


……何が起きたんだろう」


私は、静かに答えた。


「私、分かるよ。


まったく同じ体験をしてるの。


このノートを書いた人のハーモニカを聴いた時、不安と恐れが一瞬で消えていった。


本当に不思議だった。


自分でも信じられないくらいに」


私のハーモニカは、赤面したくなるほど音を外していた。


それでも、彼女は安らいでくれた。


それが何より嬉しかった。


勲章をもらえたみたいな気持ちだった。


老人のハーモニカは、心を溶かしていくような、綺麗な音だった。


私の演奏とは、まるで比べものにならない。


それでも――


吹いてみて、本当に良かった。


カールの遠吠えも、不思議だった。


本当に、不思議なことだらけだ。


ももを抱いたまま、彼女が看護師さんに言う。


「何度も中断させてしまって、ごめんなさい。


よかったら、もう少しノートの朗読を聞かせていただけませんか」


看護師さんが、やさしく頷いた。


「もちろん。今は気分も落ち着いてそうだから、続きを読ませてもらうね」


私は、彼女の役に立てたことが嬉しかった。


でも、それだけじゃない。


神が与えた音楽には、


人の心に届く、何かがある。


私はもう、それを疑えなくなっていた。

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