第81話 カールの遠吠え
「ごめん、ごめん」
そう言いながら、ももを抱いた看護師さんが戻ってきた。
彼女は、ももの姿を見た瞬間、すぐにドアのところまで迎えに行った。
「私が抱いててもいいですか?」
「もちろん。はい、どうぞ」
看護師さんが笑顔で渡すと、ももは自然に彼女の腕の中へ収まった。
「もも……もも……」
それだけを繰り返しながら、彼女は強く抱きしめる。
ももがカールに知らせてくれなかったら、私は飛び降りていた――
そんな思いが、その表情から伝わってきた。
看護師さんが静かに言う。
「じゃあ、いい? 朗読、続けるね」
そう言って、再びノートを開いた。
話は、広島の原爆、八重子さんの死、戦後の混乱、アメリカ兵からお菓子をもらう子どもたちの場面へと進んでいく。
十分ほど経った頃だった。
老人の怒りが、子どもたちやキリスト教を信じる日本人へ向かっていく場面まで来た時――
「すみません……今日は、これ以上だめみたいです」
彼女が俯いたまま、申し訳なさそうに言った。
「分かりました。じゃあ今日はここまでにしましょうね」
看護師さんが穏やかに答える。
しかし、彼女は首を振った。
「そうじゃないんです。
話が怖いんじゃないんです。
屋上から飛び降りようとした時の、あの感じが……また襲ってくるんです。
怖くて、怖くて……どうしていいのか――
また、何か大変なことをしてしまいそうで……。
助けて……助けてください……」
ももを抱きしめたまま、彼女の肩が小さく震えていた。
私は、その怯えた表情を見て、自分のことのように感じていた。
今、彼女のために、私に何ができるだろう。
何も浮かばない。
でも――
看護師さんは落ち着いていた。
その時だった。
私は、バッグの中に赤いハーモニカが入っていることを思い出した。
あの海岸で、不安と恐れに飲み込まれそうになっていた時――
老人のハーモニカを聴いた瞬間、一気に恐れが消えていったことを。
私は、はっとした。
場違いかもしれない。
でも、彼女のためにやってみたい。
ハーモニカを吹くんだ。
私は看護師さんに断ることもなく、バッグからハーモニカを取り出した。
全部は無理でも、途中までなら吹ける。
看護師さんの、あの言葉が蘇る。
「私は、できる範囲のことをやるだけ」
ハーモニカを口元に当てた瞬間、彼女が怯えたような目で私を見た。
看護師さんは、そんな私を見て、静かに笑って頷いた。
その時――
カールが、まるで拍手をするみたいに、遠吠えをした。
迷いが消えた。
緊張で手が震える。
ハーモニカも、小さく震えていた。
でも、何かに背中を押されている気がした。
私は思い切って、「ふるさと」を吹き始めた。
練習していなかったので、自分でも恥ずかしくなるほど下手だった。
すると――
カールが、ハーモニカに合わせるように、遠吠えとも歌ともつかない声を重ね始めた。
私はやめなかった。
できる範囲で、自分にできることをやるんだ。
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
彼女が泣いていた。
看護師さんが、私のハーモニカに合わせるように、「ふるさと」の歌詞を静かに歌ってくれる。
カールは、さらに大きな声で、長い遠吠えを響かせていた。
彼女の目が、少しずつ輝きを取り戻していく。
彼女の中から恐れが消えていくのが、私にははっきり分かった。
やはり――
岡野さんの曲には、不思議な力があるのかもしれない。
私は、自分のハーモニカを通して彼女が変わっていく姿を目の当たりにしながら、
神は、本当にいるのかもしれない――
そんなことを思い始めていた。
岡野さんの祈りに応えて、本当に神が与えた歌なのかもしれない。
私は、涙に濡れた彼女の目を見つめながら、そう感じていた。




