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第80話 大人の表情

看護師さんがノートを読み始めようとした、その時だった。


ももがドアの前まで歩いていき、私たちに背中を向けて、ちょこんと座った。


「ごめんね。五分だけ待っててくれる? もも、おしっこみたい。すぐ戻るから」


彼女が、やさしく言う。


「もも、ゆっくりでいいよ」


その声には、さっきまでとは違う、落ち着きがあった。


私は、ふと口にしていた。


「あなたが飛び降りようとした時、最初に気づいたのは、ももだったんだよ。ももがカールに知らせたの」


自分でも驚いた。


“飛び降りようとした”――その言葉を、ためらいなく口にしていたことに。


でも、その瞬間、思った。


本当の意味で、友達になれるかもしれないと。


「あなたも――死にたくなった人だよね」


彼女が、突然そう言った。


一瞬、言葉を失う。


その鋭さは、あの老人とどこか似ていた。


駆け引きも、探り合いもいらない。


彼女との距離は、もうほとんどない。


あとは――正直になるだけだ。


でも、それは簡単なことではなかった。


正直になるには、覚悟がいる。


私は、言葉を飾らず、そのまま話した。


「うん。少し前、電車に飛び込みそうになった。

だから私も、あなたと同じ。


私の場合は、誰にも止められなかった。

でも、怖くなって動けなくなった。それで、こうしてここにいる。


でも……死にたいと思っていたわけじゃなかった」


「……嬉しい」


彼女の目が、あらためて涙に包まれる。


「誰にも分かってもらえないと思ってたから……嬉しい」


不思議な人だと思った。


大人のように見えたかと思えば、幼い少女のようにも見える。


この時の彼女は、まるで少女の顔をしていた。


彼女は、ゆっくりと話し始める。


「私、柵を跨ぐ前に――


“そうだ、その柵を越えたら楽になれる”って、思ったの。


突然だった。本当に、突然。


怖いとも思わなかった。不思議なくらい、落ち着いてた」


少し息を整えて、続ける。


「その三十分くらい前はね、病院の隣の美容院に行こうとしてたの。


混んでたから、明後日の昼に予約を入れたの。


これから自殺しようとする人が、美容院の予約なんてする?」


彼女は小さく笑う。


「でも……これ、本当のことなの」


――分かる。


私は、分かりすぎるほど分かる。


あの電車が通過する時の、あの風と音。


飛び込もうとした、あの瞬間。


そのあと、怖くなってベンチに座り込み、立ち上がれなくなった、あの日。


私たちは、しばらく見つめ合っていた。


彼女が、小さな声で言う。


「いろいろあって、“死んだら楽になれるかも”って思ってた。それは本当。


でも、本気で死のうと思ったことは、一度もないの」


少しだけ間を置いて、続ける。


「あの柵を掴んで、足を上げた時も……

死のうとは思ってなかった気がする」


カールの頭を、そっと撫でる。


「でもね、カールが止めてくれなかったら……

私は、きっと飛び降りてた」


その言葉は、静かだった。


でも、確かだった。


「自分の心と行動が、別のものになったみたいな……

すごく怖い瞬間だった」


彼女は、まっすぐこちらを見る。


「だから、もう絶対にしないって、誰にも約束できないの」


――その恐れは、痛いほど分かる。


「死んだら楽になるかもって思ってた。でも、本当の私は、死にたいわけじゃない。


だから怖いの。

自分じゃない部分が、動いてしまうことが」


少しだけ、声が揺れる。


「だから、約束なんてできない」


そして、静かに言った。


「……でも、あなた、分かるよね?」


私は、頷いた。


彼女は続ける。


「あなたが見せたいって言ってくれた、あの老人のノート――


まだ途中だけど、

あれに、私が本当に知りたいことが書いてある気がするの」


カールの頭を撫でながら、


「そう思う」


と、静かに言った。


その時、彼女は――


はっきりと、大人の表情をしていた。

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