第79話 もういい!
腕には自傷の痕。
身体にはいくつものあざ。
そして、交感神経の反応による鼻血――
彼女は、心も身体も、休まる時間がなかったのだと思った。
ふと、彼女の言葉を思い出す。
「友達になりたい」
あのとき、私にそう言った。
私は、彼女に何ができるのだろう。
人は、「死にたい」と思い続けた先で行動に移るのではない。
ある一定の限界を超えたとき――ではなく、
もっと低いところで、ふいに越えてしまうことがある。
私も、そこまで行ったことがある。
だから分かる。
「死にたい」というのは、そんな単純なものではない。
自分でも予測できない。
そう――
後ろから、突然襲われるような感覚だった。
何の前触れもなく、
「もういい」
そう思ってしまう、恐ろしい瞬間がある。
あの一瞬が、すべてを決めてしまう。
彼女も、きっとその中にいる。
もし私にできることがあるとすれば――
看護師さんが言った通り、
彼女から目を離さないこと。
それだけなのだと思った。
カールは、すでにそれをしていた。
そして、それは私にも当てはまる。
彼女にとっても、
そして私にとっても、孤立は危険だ。
ひとりで考え込んでしまうと、あの
「もういい」
に捕まってしまう。
まるで、手動運転が自動運転に切り替わるように――
自分の心が、自分のものではなくなる瞬間だ。
今、私たちは明らかに分岐点にいる。
彼女も、私も。
私は、看護師さんと彼女を見つめた。
今こうして、ここに巡り会えていること自体が、奇跡のように思えてくる。
すべては、あの海岸であの老人に出会ったことから始まっていたのだ。
あの「休ませてあげます」という言葉を、軽く扱ってはならない。
私の内側から、そう語りかけられているようだった。
そのとき、彼女が言った。
「ちょっと、トイレです」
そう言って、ドアの方へ向かう。
私は看護師さんではなく、カールと顔を見合わせた。
「すぐ戻ります」
彼女はそう言った。
監視しているように感じさせないように――
「カールも行くって」
そう言いながら、私はカールと一緒にドアへ向かった。
彼女は、鋭かった。
「ありがとう。いっしょにどうぞ」
そう言って、笑顔を見せた。
すべて、分かっていたのだ。
看護師さんは、
「お茶、入れて待ってるね」
とだけ言って、食器棚へ向かった。
*
トイレから戻り、お茶をいただく。
彼女が目を閉じて言った。
「ああ、美味しい」
その言葉を聞いたとき――
海岸で、私が淹れたハーブティーを「美味しい」と言ってくれた、あの老人の顔が浮かんだ。
夕陽に照らされた、あの穏やかな笑顔。
看護師さんが、やさしく微笑む。
「じゃあ、続きを読みますね」
あの老人の真実と向き合う、第二幕が静かに上がった。
もう彼女から、怒りの気配は消えていた。
少し開けた窓から、やわらかな風が入り込む。
潮の香りが、静かに部屋を通り抜けていく。
ももの白い毛先が、気持ちよさそうに揺れていた。




