第77話 彼女の眼差し
真ん中の掛け布団をめくり、看護師さんはそこに腰を下ろした。
右に彼女、左に私。
ももは私の横で、お腹を上に向けて寝転んでいる。
カールは自分の楕円形のベッドをくわえ、看護師さんを見つめていた。
「いいよ、どこでも」
看護師さんがそう言うと、カールは彼女の隣にそっとベッドを置いた。
彼女のそばで眠るつもりなのだろう。
それでもベッドには入らず、布団の上に遠慮がちに上がる。
そして、彼女の痛くない方の足に顎を乗せて、静かに身を落ち着けた。
カールは、本当に人の言葉を理解しているようだった。
いや、それだけではない。
とくに彼女の心の動きには、ひどく敏感に反応しているように見えた。
「少し長い話になるから、途中で休みながらいくね。いい?」
看護師さんがやさしく言う。
彼女は大きく、ゆっくりと頷いた。
そして中指で額にかかる髪をそっと撫で、片側ずつ耳にかけていく。
一語一句を取りこぼさないようにする、その構えだった。
私はすでに内容を読んでいる。
重い話だということも分かっている。
けれど、あのときは混乱の中で読んでいた。
今、看護師さんの声で語られることで、別のかたちで届く気がしていた。
読み終えたあとも、私の心は神の方へは向かなかった。
それが、正直なところだった。
私は私だ。
無理に変わろうとは思わない。
でも――
彼女は違う。
抱えているものの深さが、最初からまるで違う。
それでも、私は私のままで行く。
自分に嘘はつきたくない。
看護師さんはノートを開きながら、彼女の目をやさしく見つめて言った。
「これは、94歳の患者さんが、ここにいる彼女に宛てて書いたものです。
実はね、彼女が“あなたに見せたい”って言って、私に相談してくれたの。
読ませるかどうか、その判断を私に任せてくれました。
ひとりの老人の思いが、隠さず綴られています。
時代も違うから、理解しにくいところもあるかもしれない。
でもね――
私もこれを読んで、彼女と同じように、あなたと一緒に考えてみたいと思ったの。
命のこと、生きるということを。
いい?」
彼女は静かに頷いた。
その目には、覚悟のようなものが宿っていた。
何かを決めようとしている目だった。
読み終えたあとで、ゆっくり考える――
そんな余白は、もう残されていないように見えた。
今日という一日を、何も決めずに終わらせるつもりはない。
そんな緊張が、彼女から伝わってくる。
自分が何をしてしまうか分からない恐れと、戦っているのだ。
それが分かる。
私も、同じだから。
早く、安全な場所まで戻りたい。
両足で、しっかりと立てる場所まで。
彼女も、きっと同じだ。
これは――体験した者にしか分からない感覚だ。
看護師さんが、ぽつりと語り始めた。
「この地球上には、まだ誰も足を踏み入れたことのない場所があります。
私たちの心の中にも、そんな場所があるのかもしれません」
そう言って、しばらく目を閉じた。
部屋に、静かな沈黙が落ちる。
彼女は今――
その扉の前に立っている。
その表情が、はっきりと語っていた。
思わず目を奪われるほどの、強い眼差しだった。
その深さに、少しだけ置いていかれる気がした。




