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第75話 銭湯で

日がすっかり落ちた街を、五人で並んで銭湯へ向かった。


夜の風が、やさしく頬をなでる。


数時間前まで、屋上から飛び降りようとしていた彼女が、今はカールのリードを持って歩いている。


微笑んでいる。


けれどその奥に、深い影のようなものが見えた。


私には、そう感じられた。


銭湯の前に着くと、入口の横に小さな庭があった。


ももが、するりと金網の下をくぐって中に入っていく。


「いいの、いいの。いつものことだから。

あの子、亀さんと遊びたいのよ」


看護師さんが笑って言った。


カールは彼女のそばを離れない。


ぴたりと寄り添うように歩いている。


「カール、お庭で待ってて」


看護師さんの言葉に、カールは素直に従い、ゆっくり裏口の方へ向かっていった。


途中で振り返り、私を見た。


何か言いたげな目だった。


「お金はいらないよ」


看護師さんはそう言って、券売機で三人分の入浴券を買ってくれた。


中に入ると、彼女が小さな声で言った。


「びっくりしないでね……」


「えっ?」


意味が分からないまま、私は立ち止まる。


看護師さんは彼女に、


「ここに座って」


と声をかけ、カールに噛まれた足の包帯を外し、防水の大きめの絆創膏を丁寧に貼っていった。


「……あまり見ないでね」


そう言いながら、彼女はゆっくりと服を脱いだ。


私は目をそらした。


それでも、視界の端に見えてしまった。


両腕に残る、いくつもの傷跡。


背中や脇腹に広がる、まだ新しいあざ。


私は何も言わなかった。


看護師さんも、触れなかった。


「……まだ痛む?」


その言葉が、どの傷に向けられたものなのかは分からなかった。


誰も、それ以上は何も言わなかった。


私は、病院に来ていたあの女性の顔を思い出した。


それでも、何も聞かない。


聞かれたくないに決まっている。


三人で湯船に浸かった。


何か話さなければと思いながら、


「お湯、ちょうどいいね」


それだけを口にした。


「シャワーだけより、ちゃんと浸かった方がいいのよ。

心にも体にもね」


看護師さんが、やさしく言う。


彼女は、ずっと黙ったままだった。


風呂から上がると、ももとカールが並んで待っていた。


カールは、自分のリードをくわえている。


彼女に持ってほしいのだろう。


あの時、彼女が「行く、行く」と明るく言った理由が、少し分かった気がした。


何かを乗り越えようとしていたのだ。


私たちとの間にある壁を、自分から取り払おうとしていた。


きっと、そうだ。


ももは私の足にすり寄り、抱っこをねだった。


夜の車の音が怖いのだろう。


看護師さんが自販機の前で振り返る。


「私はビール飲むけど、どうする?飲む?

おごったげる」


「いただきます」


彼女が、迷いなく答えた。


私はお酒は飲めないのに、


「私も」


と、つい言ってしまった。


三人で、自販機の横の花壇のふちに腰を下ろした。


風呂上がりの夜風の中、静かにビールを飲む。


乾杯もなく、それぞれが、自分の時間を過ごしていた。


夜空の星が、そっと語りかけてくるようだった。


人生には、寄り道が必要なのだと。

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