第74話 生きる力
看護師さんは、胸の前でノートを抱きしめるようにして立ち上がった。
左脇にノートを預け、夕陽を見つめながら、両手で静かに拍手を送る。
屋上に響く、たったひとりのスタンディングオベーション。
死を目前にした患者が、最後の仕事を見事にやり遂げたことへの拍手だった。
看護師さんは、夕陽に向かって心の中で誓った。
――次は、私の番だ。
それは看護師としてではなく、ひとりの人間としての責務だった。
私と彼女が部屋に戻ると、三人分の布団が用意されていた。
ももは私のそばに寄り添い、カールは彼女のもとから離れようとしない。
「カールは、全部わかっているみたい」
彼女がぽつりと言った。
どういう意味だろう。
まだ、死にたいという思いを捨てきれていないのだろうか。
カールは、それを本能で感じ取っているのかもしれない。
コンコン、とノックの音がした。
看護師さんが戻ってくる。
明るい表情で、
「お待たせ、お待たせ」
と声をかけた。
カールは彼女から目を離さない。
その様子を見て、看護師さんは一瞬ですべてを察したようだった。
それでも、その表情は崩さなかった。
「この部屋の隣にシャワーがあるから、自由に使っていいのよ。
私は泊まるときは、近くの銭湯に行っているの。疲れが取れるから。
よかったら、みんなで行く?」
「行く、行く」
彼女がすぐに答えた。
その明るさに、少し驚いた。
どこか無理をしているようにも感じた。
「そこの銭湯には庭があってね、カールとももの友だちの亀がいるの。
だから、行くときはいつもふたりも一緒なの」
「あなたは?」
「もちろん行きます」
私はそう答えた。
その時、自分の中で何かがほどけていくのを感じていた。
適応障害や摂食障害が、少しずつ癒えていく気配。
ひとりでいる時は、シャワーを浴びることさえつらかったのに――
今日は、かぼちゃも、里芋も、きゅうりも、おにぎりも、量は少ないながらも美味しく食べることができた。
彼女のことばかり気にしていて、自分の変化に気づいていなかった。
私は、前に進んでいる。
少しずつ、解放されてきている。
素直に、嬉しかった。
それでも――
彼女のことが気になって仕方がない。
彼女がカールを撫でている時、看護師さんが私に声をかけた。
「あそこのシャンプーと石鹸、取ってくれる?」
戸棚を指差しながら、そっと近づいてくる。
そして、小さな声で言った。
「彼女をひとりにしないように、協力してくれる?
トイレに行くときも、なるべく一緒に。いい?」
カールも、看護師さんと同じ表情で私を見ていた。
彼女の状態が気になっていた。
それと同時に――
看護師さんに信頼されていることが、嬉しかった。
私に、役目がある。
誰かのためにできることがある。
それは確かに――
私の中に、生きる力を灯していた。




