第72話 本当のこと
私は72AI
看護師さんはノートを読みながら、亡くなった夫のことを思っていた。
自ら命を絶ってしまった人だった。
理由は分からないまま、深く苦しみ続けてきた。
あの時、自分に何かできたのではないか。
自分に責任があったのではないか。
その思いは、消えることなく心に残り続けていた。
しかし今、このノートを読み進めるうちに、その苦しみが少しずつほどけていくような、不思議な感覚に包まれていた。
人生には、どうすることもできないことがある。
分からないこともある。
それでも――
見えてくるものがある。
看護師さんはページをめくり、再び読み始めた。
ーー
あなたがあの海岸で、私のハーモニカを聞いてくださり、そのあと不安と恐れが消えていったと言ってくださった時、私は、もう死んでもいいと思えるほど嬉しかったのです。
それだけではありません。
あなたも「あの声」を確かに聞いたと言ってくださった時、私は確信しました。
自分の体験を、知っていることを、すべて話さなければならないと。
なぜ、そこまで嬉しかったのか、お分かりでしょうか。
あなたが、私のハーモニカを聞いたその瞬間に、不安と恐れが消えたと言ってくださった時――
私は、自分もまた、神の真実を伝えることができたのだと感じたのです。
岡野貞一さんのように。
あの日、私のために祈ってくれた、あの人のように。
私にも、それができた。
そのことが、死ぬほど嬉しかったのです。
私の好きだった「故郷」や「紅葉」、「春の小川」、「春が来た」。
それらを作曲したのが、岡野貞一さんというクリスチャンだと知った時、私は怒りに震え、ハーモニカを海に投げ捨てました。
しかし今は、違います。
あの曲は、神からの贈り物だったのではないかと思うのです。
音楽家は、ときに「メロディーが上から降りてくる」と言います。
それは本当のことなのだと思います。
岡野貞一さんも、そうだったのではないでしょうか。
祈りに応えて与えられた旋律。
だからこそ、時代を超えて、人の心を慰めることができるのだと思うのです。
私の拙いハーモニカで、あなたの不安と恐れが消えたのも、そこに神の思いが流れていたからなのではないか――
そう思うのです。
あの人に出会った日、私は生まれ変わったようでした。
両足と片腕を失いながら、路上でビラを配り、私のために涙を流して祈ってくれたあの人に。
その日の夜、私は海岸に行き、朝まで泣き続けました。
これまでの人生を赦してくださいと、神に祈ったのです。
泣き疲れ、真っ暗な海で波の音を聞いていると、妹・八重子の声が聞こえた気がしました。
あの時のように、「アメリカが憎い」と叫ぶ声ではありません。
楽しそうに笑っている声でした。
私は耳が聞こえません。
八重子の声を知っているはずがありません。
それでも――
確かに、八重子でした。
私には分かるのです。
嬉しそうに笑っていました。
夜が明け、あたりが淡い色に染まり始めた頃でした。
波打ち際が、一瞬、光ったように見えたのです。
近づくと、あのハーモニカが打ち上げられていました。
私が海に投げ捨てた、あのハーモニカです。
その時、私の長い旅は終わりました。
クリスチャンを憎み続けてきた、あの長い時間が。
この人生は、天の故郷へ帰る旅なのだと思います。
しかし私は、そのほとんどの時間を、戦争がもたらした混乱の中で、安らぎを知らずにさまよい続けてきました。
神への怒りに支配されていたのです。
原爆を落としたアメリカの神への怒り。
神風を吹かせなかった日本の神への怒り。
しかし――
人生の終わりに近づいた今、私は出会いました。
ほんとうの神に。
それは、アメリカの神でも、日本の神でもありません。
特定の民族の神ではないのです。
すべての人の神でなければ、神ではありません。




