第71話 鏡の人
地面に落ちていたビラを、怒りに任せて足で踏みつけ、その場を去ろうとした――その時でした。
ビラを配っていたその人が、私に向かって丁寧に一礼したのです。
まるで、私の怒りの理由をすべて理解しているかのような、やさしい表情でした。
そして、私の目をまっすぐに見つめ、泣き出しそうな声でこう語りかけてきたのです。
「しかし、わたしが与える水を飲む人は、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」
私は耳が聞こえません。
それでもその時は、彼の口元に全神経を集中させていたため、はっきりと読み取ることができました。
それが彼自身の言葉ではなく、聖書に書かれているイエス・キリストの言葉であることも、自然と理解できました。
その瞬間は、意味までは分かりませんでした。
しかし――
その言葉を受け取ったあと、怒りが静まっていったことを、私は確かに覚えています。
「永遠のいのちへの水」
その言葉だけが、心の奥に残り続けていました。
やがて落ち着きを取り戻した時、ひとつの記憶が蘇りました。
あの「休ませてあげます」という声を聞く直前、海岸で、山の清流のような真水の匂いがしたことです。
それまで忘れていたのに、その時、はっきりと思い出したのです。
潮の匂いではありませんでした。
確かに、山の水の匂いでした。
そして今、その「水」という言葉が、聖書とつながっていることに気づいたのです。
その後、彼は胸に拳を当て、目を閉じて祈り始めました。
頬には涙が流れていました。
両足を失い、座ったまま、残された片腕で拳を握り、胸に押し当てるようにして、静かに祈っていたのです。
その姿を見ても、怒りは込み上げてきませんでした。
日本人クリスチャンに対して怒りを感じなかったのは、この時が初めてでした。
私は彼のもとへ歩み寄り、尋ねました。
「あなたは、なぜ泣いているのですか」
私の声で、彼は私が耳の聞こえない者であることに気づいたようでした。
口を大きく開き、ゆっくりとこう言いました。
「私も、あなたと同じように、アメリカの神を心の底から憎んでいたからです」
その言葉に、私は驚きました。
「なぜ、そう思うのですか。
なぜ、私がアメリカの神を憎んでいると分かるのですか」
そう問い返すと、彼は静かに答えました。
「鏡です。
あなたを見ていると、鏡を見ているような気がするのです」
私たちの子ども時代は、とても厳しい時代でした。
健常者でさえ生きるのが難しい時代です。
障害を抱える者にとっては、なおさらでした。
社会から露骨に邪魔者扱いされることも、珍しくはありませんでした。
彼が「鏡」と言った時、私も同じように感じていました。
彼を見て、自分を見ているようだったのです。
同じ匂いを感じていました。
ただ一つ、決定的に違っていたのは――
私は怒りの中に留まり、
彼は、慰めの中に生きていたということです。
私は、八重子以外の人間を大切に思ったことがありませんでした。
しかし彼は、初対面の私を前に涙を流し、祈りを捧げてくれたのです。
その時、はっきりと分かりました。
私は怒りのために、自分の人生を失ってきたのだと。
その瞬間から、私の中で何かが変わり始めていました。
それは、「神」という存在に対する思いでした。
私は戦争の中で、あまりにも多くの苦しみと残酷さを経験し、神に対する考え方そのものが歪んでしまっていたのです。
終戦間近の頃、私は日本の神が神風を吹かせ、必ず勝利に導いてくださると信じていました。
私だけではありません。
あの頃、日本中がそう信じていました。
そう教えられていたのです。
疑うことなど、一度もありませんでした。
当時の私は、日本には日本の神がいて、アメリカにはアメリカの神がいると信じていました。
そして、アメリカの神は偽物で、本当の神は日本の神だと疑いもしなかったのです。
以前にもお話ししたことですが、どうしてももう一度伝えておきたいのです。
「アメリカの神」「日本の神」と分けて考えること自体が、間違いだったのです。
それは、あの夕陽を見て、
「これはアメリカ人のものではない。日本人だけのものだ」
と声に出して言っているのと同じことでした。
私は、その愚かさに気づいたのです。
戦争は、人の命を奪います。
そして同時に、心をも奪っていきます。
怒りと恨みに支配され、神に対する考え方までも歪めてしまうのです。
私は、その間違いに縛られていたことに気づきました。
夕陽は一つです。
神も一つです。
日本人には日本人の神がいるという考えは、完全な誤りでした。
それは敵意から生まれた幻想であり、真実ではなかったのです。
そして私は今、思うのです。
あの時代に生まれた歪んだ神のイメージが、いまの若い人たちにも、形を変えて受け継がれてしまっているのではないかと。




