第70話 いのちの水
このノートを読み終えたとき、看護師さんは、自分が次に何をすべきかをはっきりと掴んでいた。
ボランティアで関わっているメンタルの会で、この手紙を分かち合うべきだ――
柵を越えようとしたあの彼女に、ひとりで読ませるのではなく、他の人の感想や言葉も交えながら。
その方がいい。
みんなにとっても。
そして、彼女にとっても。
そうするべきだと、自然に思えた。
いま、この手紙を読むことになったのは、偶然ではない。
このノートには、真実がある。
人の心は、真実に触れたとき、必ず何かを感じる。
看護師さんは静かに決意し、確信を宿した目でノートを見つめると、ゆっくりとページを開いた。
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私が好きだった唱歌――「故郷」や「紅葉」、「春が来た」、「春の小川」……。
それらを作曲したのが日本人クリスチャンだったと知ったとき、私は大切にしていたハーモニカを海に投げ捨て、唱歌も捨てたつもりでした。
しかし、唇が覚えた振動と、心に深く刻み込まれていたメロディーと歌詞は、私から離れてはくれませんでした。
忘れようとすればするほど、かえって語りかけてくるのです。
八重子を奪ったアメリカの神を信じる日本人クリスチャンを、どうしても赦すことができませんでした。
唯一の慰めであったハーモニカと唱歌を手放した日々は、私をまるで廃人のようにしていきました。
九十歳を過ぎた私には、もはや喜びも楽しみも残されていませんでした。
唱歌を失った私は、魂の抜け殻のようだったのです。
そんなある日、両足と片腕を失った男性が、路上でキリスト教の布教をしている姿を目にしました。
たったひとりで、ビラを配っていました。
私より一回りほど若い、八十歳前後の人に見えました。
はがきほどの大きさに切られた紙を配っていたのです。
私は受け取りませんでしたが、地面に落ちていたビラに目が留まりました。
そこには、手書きでこう書かれていました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
「休ませてあげます」という言葉に、強い衝撃を受け、その場から動けなくなっていました。
あの日、海岸で聞いたあの声――
「休ませてあげます」
その言葉が、聖書に書かれていると知り、私の心は激しく揺さぶられたのです。
もしかすると私は、聖書の神の声を聞いてしまったのかもしれない――
そう思いました。
しかし、それを受け入れることは、どうしてもできませんでした。
大好きだった日本の唱歌が、憎んでいた日本人クリスチャンによって作られていたという事実。
そのうえ、聖書の神の声を聞いたかもしれないという思い。
それらすべてが重なり、自分の人生そのものを呪いたくなりました。
地面に落ちていたビラを、怒りに任せて足で踏みつけ、その場を去ろうとした――その時でした。
ビラを配っていたその人が、私に向かって丁寧に一礼したのです。
まるで、私の怒りの理由を理解しているかのような、やさしい表情でした。
そして、私の目をしっかりと見つめ、泣き出しそうな声で、こう語りかけてきたのです。
「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」
私は耳が聞こえません。
それでも、その時は、彼の口元に全神経を集中させていたため、普段よりもはっきりと読み取ることができました。
彼が自分の言葉を語っているのではなく、聖書に書かれているイエス・キリストの言葉を伝えていることも、内容から自然に理解できました。
その瞬間は、意味を完全には理解できませんでした。
しかし――
その言葉を受け取ったあと、確かに怒りが静まっていったことを、私ははっきりと覚えています。
「永遠のいのちへの水」という言葉が、心の中に残り続けていました。
やがて気持ちが落ち着いてくると、ひとつの記憶が蘇ってきました。
あの「休ませてあげます」という声を聞く直前、海岸で、山の清流のような真水の匂いがしたことです。
それまで完全に忘れていたのに、その時、鮮明に思い出したのです。
潮の香りではなく、確かに、山の水の匂いでした。
その不思議さを感じていたことを、はっきりと覚えています。
そして今、その「水」という言葉も、聖書とつながっていることに気づいたのです。
その後、彼は胸に拳を当て、目を閉じて祈り始めました。
頬には涙が流れていました。
両足を失い、座ったまま、残された片腕で拳を握り、胸に押し当てるようにして、静かに祈っていたのです。
その姿を見ても、怒りは込み上げてきませんでした。
日本人クリスチャンに対して怒りを感じなかったのは、この時が初めてでした。
私は彼のもとへ歩み寄り、尋ねました。
「あなたは、なぜ泣いているのですか」
私の声を聞いて、彼は私が耳の聞こえない者であることに気づいたようでした。
口をはっきりと動かし、ゆっくりとこう言いました。
「私も、あなたと同じように、アメリカの神を心の底から憎んでいたからです」
その言葉に、私は驚きました。
「なぜ、そう思うのですか。
なぜ、私がアメリカの神を憎んでいると分かるのですか」
そう問い返すと、彼は静かに答えました。
「鏡です。
あなたを見ていると、鏡を見ているような気がするのです」




