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第68話 誰もいない海岸

看護師さんは何度もノートを閉じては目を閉じ、深く息を整えながら読み進めていた。


あの患者が亡くなる直前に、これを書き残したという事実に、ただ驚嘆するばかりだった。


栞代わりに挟んでいた指でページを開き、再び意識をノートへと向ける。


ゆっくりと、言葉の重さを受け止めながら。



私の怒りは、まったく収まりませんでした。


その様子を見ていたあの女性が、心配そうな顔でもう一度声をかけてくれたのです。


「大丈夫ですか?

奥に横になれる場所がありますので、少し休まれますか?」


怒っているのではなく、体調を崩したのだと思われたのでしょう。


「ありがとうございます。大丈夫です」


あの「故郷」と「紅葉」がクリスチャンによって作られていたという事実は、私の心に大きなひびを入れていました。


とくにこの二つの曲は、すでに私の身体の一部のようになっており、私そのものと言ってもいいほど深く結びついていたのです。


顔色が悪かったのでしょうか。


その女性はさらに心配そうに続けました。


「ご家族の方にお知らせしましょうか?

連絡先がわかればお電話しますよ」


「ありがとうございます。本当に大丈夫です。

もしよろしければ、先ほどの岡野さんという方のことを、もう少し教えていただけませんか」


そうノートに書いて見せました。


「はい、大丈夫ですよ。すぐに分かると思います」


その方は気持ちよく応じてくださり、ほどなくして戻ってきました。


「こちらをご覧ください」


そう言って、再び一枚のプリントを手渡してくれたのです。


岡野貞一が作曲した唱歌「ふるさと(故郷)」が発表されたのは1914年(大正3年)、戦争の27年前のこと。


作曲者である岡野貞一は、寡黙で熱心なクリスチャンだったと書かれていました。


そして、太平洋戦争開戦直後の1941年12月29日に亡くなったとも記されていました。


あのビラに書かれていたことは、本当だったのです。


しばらく休ませてもらったあと、丁寧にお礼を伝え、私は図書館を後にしました。


部屋には戻らず、そのまま、いつものあの海岸へと向かいました。


波打ち際に立ち、カバンから長年大切にしてきたハーモニカを取り出します。


そして、思い切って海へと投げ捨てたのです。


声を上げて泣きました。


七十年以上も手放すことのなかったものです。


悔しさが、抑えきれずに込み上げていました。


日本人クリスチャンが作った曲だと知らずに、その音色に慰められてきた――。


その事実が、耐え難かったのです。


ハーモニカを海へ投げたのは、八重子への想いからでもありました。


アメリカを憎んで死んでいった、あの小さな妹。


その姿が、あまりにも不憫でならなかったのです。


八重子が憎んだものを、兄である自分も共に憎み続けたかった。


当時の私にとって、「アメリカ」と「クリスチャン」は同じ意味を持つ言葉でした。


八重子をひとりにしたくない――


その思いが、ハーモニカを手放させたのです。


しかし、ハーモニカを捨てても、「故郷」と「紅葉」の旋律だけは消えてくれませんでした。


音を、歌を、海に投げ捨てることはできなかったのです。


憤りと悔しさが、私を壊していくようでした。


その場に立っていられず、私は砂浜にしゃがみ込み、うなだれました。


その時でした。


海岸であるはずなのに、真水の匂いがしたのです。


そして――


声が聞こえました。


「休ませてあげます」


はっきりとした声でした。


聞こえるはずのない、この耳に。


耳で聞いたと表現するのが正しいのかは分かりません。


それでも、他に言いようがないのです。


確かに、はっきりと聞こえたのです。


誰もいない海岸で。


確かに、「休ませてあげます」と。


その声は、心の奥に直接響くようでした。


耳の聞こえない私が、聞こえるはずのない声を聞いたのです。


すると、それまで抱えていた怒りが、嘘のように消えていきました。


そして――


八重子が、楽しそうに笑っている顔が浮かんできたのです。


言葉では説明できない、不思議な出来事でした。


私は、自分の年齢のことを考えていました。


九十歳という年齢。


残された時間が長くないことは分かっています。


それでも――


この身体が動かなくなるその日までに、あの声の正体を突き止めたい。


それが、私の人生最後の願いになったのです。

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