第66話 唱歌
看護師さんはノートを閉じた。
思考が深く沈み込み、しばらく動けなかった。
柵を越えようとした彼女に、このノートを見せるべきなのだろうか。
それは本当に正しいことなのか。
彼女は、どう感じるだろう。
……今ここで考えても、答えは出ない。
むしろ――今の彼女だからこそ、読む意味があるのかもしれない。
そう思い直す。
余計な先入観を持たず、ただ受け取るしかない。
すべてを読み終えたときにしか、判断はできないのだから。
看護師さんは静かに息を整え、ノートを開いた。
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助けの手を差し伸ばさなければならない、苦しむ同胞の日本人を放っておいて、アメリカになびく日本人のキリスト教徒を、殺してやりたいほど憎みました。
お菓子をもらって喜ぶ子供たち、外国の神を信仰する日本人……。
国土を焼き尽くし、命を奪い去る戦争。
それだけではありません。
生き残った人間の心まで、破壊していくのです。
私は、何もかもがアメリカにひれ伏していくことに、どうしても我慢がならなかったのです。
戦後二、三年が経った頃だったと思います。
宣教師たちは、英語教育や救援物資の配布などを通して、社会に深く関わるようになってきました。
その宣教師たちと共に、日本人キリスト教徒が布教活動をしていたのです。
彼らの姿を目にするたびに、私は我を失うほど心をかき乱されました。
私の怒りは、八重子の亡霊と一体となって燃え上がっていったのです。
その怒りによって、自分が何をしでかすか分からなくなり、恐ろしくなりました。
やがて私は、布教活動を目にすると逃げるように、その場を離れるようになっていったのです。
どうしても、外国の神を信仰する日本人の気持ちが理解できませんでした。
アメリカ兵よりも、日本人クリスチャンに対して、より強い嫌悪感を抱いていました。
その感情は、言葉では表現できないほど強く、私が九十歳になる頃まで続いたのです。
私は、人生のほとんどを怒りの中で過ごしてしまいました。
ご存じのように、私はハーモニカが大好きでした。
耳が聞こえなくても、唇に伝わる振動が脳の中で変換され、メロディーとして感じることができるのです。
それは、おそらく健常者が聞いている音に近い感覚なのだと思います。
中でも、唱歌や童謡が大好きでした。
それらの歌詞とメロディーは、敗戦の悔しさや、日本人キリスト教徒に対する怒りを静めてくれたのです。
妹・八重子の、あの「アメリカが憎い、アメリカが憎い」と言って死んでいった姿。
全身に大火傷を負ったあの姿が目に浮かび、断末魔のような声がよみがえるとき、私はあの海岸で「故郷」や「もみじ」を吹いていました。
それは、やがて八重子への鎮魂歌となっていきました。
何十年もの間、この海岸で、八重子のためにハーモニカを捧げ続けてきたのです。
私が九十歳になろうとしていた頃のことでした。
衝撃的な出来事が起きたのです。
それは、私にとって天と地がひっくり返るような出来事でした。
私は怒りに震え、大切にしていたハーモニカを、あの海に投げ捨ててしまったのです。
その出来事とは、私が憎み続けてきた日本のクリスチャンに関することでした。
四年前の十二月、クリスマスを目前に控えた頃のことです。
私が九十歳を過ぎた頃でした。
街全体に、クリスマスの雰囲気が漂っていました。
あの海岸の駅の改札を出たところで、四、五人の女子高生が制服のまま、ギターとマイクを使ってクリスマスソングを歌っていたのです。
近くのキリスト教会に通っている高校生たちのようでした。
後ろには、宣教師らしき外国人が二人立っており、布教のためのビラを配っていました。
多くの人が足を止めて、耳を傾けていました。
私はクリスマスが嫌いでしたが、その日は少し離れたベンチに座り、彼女たちの様子をぼんやりと眺めていました。
もちろん、何も聞こえません。
それでも、クリスマスソングであることは分かります。
サンタクロースの赤と白の帽子をかぶっていましたし、聴いている人たちの表情や雰囲気からも感じ取れたのです。
何曲か歌ったあと、ひとりの女の子がマイクを持って何かを話していました。
そしてそのあと、ギターを置き、歌だけのコーラスが始まったのです。
私は思わずベンチから立ち上がり、彼女たちのすぐ近くまで歩いていきました。
「故郷」を歌っていたからです。
口の動きで、歌詞が分かったのです。
なぜ、クリスマス間近のこの時期に、教会の高校生たちが唱歌を歌っているのか、不思議に思いました。
「故郷」が終わると、「春の小川」「春が来た」、そして最後に「もみじ」をコーラスしたのです。
そのとき、私は思いました。
これは、日本の魂とも言える唱歌や童謡を“呼び水”にして、布教活動をしているのだと。
彼女たちの背後で、宣教師が糸を引いているのだと感じました。
悔しかったのです。
アメリカに家族を奪われた怒りが、再び燃え上がりました。




