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第64話 老人の願い

夕陽が、ゆっくりと沈んでいく。


あたりは少しずつ暗くなり、

屋上から見えるマンションの窓に、ひとつ、またひとつと灯りがともり始めた。



彼女は一旦病室へ戻り、

私はカールとももに導かれるようにして部屋へと戻った。


看護師さんはノートを持ち、ナースステーションの奥へと向かっていく。


本当に頼りがいのある人だと思う。


安心して任せることができる。


看護師さんの判断が下りたら、

彼女にこのノートを読んでもらいたい。


きっと、彼女の心に何かを語りかけ、

生きる力になるはずだと感じていた。


私はまだ、神を信じるところまでは辿り着いていない。


けれど、神を「神様」と呼ぶ彼女には、

この言葉がまっすぐ届く気がする。


人のことを心配できる立場ではないのかもしれない。


それでも、少なくとも――

自死へと向かう衝動からは、少し遠ざかるはずだと思っていた。


あのノートには、その力がある。


それだけは、疑いようがなかった。


私の場合は、ただ足踏みしているだけなのだと思う。


彼女には、どうしても今日、読んでもらいたい。


心のどこかで、

彼女がもう“安全な場所”にいると確かめたかった。


彼女とは、不思議なほどに、ひとつにつながっているような感覚があった。



ナースステーションの奥には細い通路があり、

その先は中庭へと続いている。


そこは患者が立ち入ることのできない場所で、

看護師たちがひと息つくための小さな空間になっていた。


看護師さんは、あたたかい日本茶を手にそこへ向かい、静かにノートを開く。


かつて担当していた患者の記したものでもある。


そのことを踏まえながら、

できるだけ客観的に、慎重に読み進めていった。


最初のページから、

ひとつひとつの言葉を噛みしめるように。


ゆっくりと、丁寧に。



ーーー


老人のノート


ハーブティーのお嬢さんへ


私はこの人生を終える時が来たようです。


ここに書き記すことは、すべて本当のことです。

嘘や作り話は一切ありません。


私の醜い部分も隠さず書いていきます。


あなたがあの海岸で聞かれた言葉...


「休ませてあげます」


という言葉が、幻聴でも気のせいでもないということが、分かって頂けると思います。


あの海岸で急に戦争のこと、私の両親や妹のことを話してびっくりさせてしまい、申し訳ございませんでした。


あなたの心の状態を考えてもっと慎重になるべきでした。


しかし、あの時代に何があったのかを話さなければ本質的なことをご理解いただけないと思っています。


私は最期の力を振り絞って、私が見たこと、聞いたこと、考えてきたことを包み隠さず書いてゆきます。


どうぞ、あなたのご気分の良い時に少しずつお読み下さい。


気分が悪くなって心の疲れ、病が悪化するような事になれば何のためにこれを書いているのかわからなくなります。


どうか少しでも圧迫を感じるような時は、ノートを閉じて下さい。


焦らず気分の良い時だけお読み下されば私はそれがいちばん嬉しく思います。


少し長くなりますが、もう一度最初から書かせて頂きます。


81年前のあの日、広島に原爆が落とされたのです。


当時、両親と妹と4人で爆心地に近い第二基町という所に住んでいました。


原爆が落とされた日の朝早くに、私は母に用事を頼まれて電車で30分くらいの八本松という所にいっていました。


そのために私だけ原爆の被害を受けずにすんだのです。


しかし、家にいた父と母はひとたまりもありません。

一瞬で亡くなったようです。


確認のしようもありませんでした。


原爆の後、焦土と化した街に入って、家があったと思われる場所に行きましたが、跡形もなかったのです。


どうすることも出来ませんでした。


そのあと、妹を探していると、妹の友人の家の近くで、全身大火傷の状態で見つかりました。


一目見て助からないだろうと思うほどの状態で、声をかけることさえ出来なかったのを覚えています。


八重子という名前の綺麗な目をしていた可愛い妹でした。


お兄ちゃん、お兄ちゃんと言って何処までも私についてきました。


私は生まれつき耳が聞こえなかったので、いつも八重子が私の耳になって助けてくれていました。


八重子の口元を見るだけで何を話しているのかがすべてわかります。


周りの状況をいつもうまく教えてくれました。


八重子がいたので、どれだけ助けられたことでしょう。


その八重子が変わり果てた姿で見つかった時、恐ろしくて涙も出なかったと記憶しています。


何の治療もなく1カ月が過ぎた頃、八重子は苦しみ抜いて死にました。


アメリカが憎い、アメリカが憎いと言って死んでいったのです。


その言葉は私の心に深く浸透してゆきました。


両親と妹を殺した原爆を、そしてアメリカを心の底から憎みました。


国と国の事情は何もわかりません。

ただ戦争の痛みと苦しみだけがありました。

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