第61話 友達になりたい
「あの、どちら様ですか?」
看護師さんが静かに問いかける。
院長は短く答えた。
「知り合いだそうだ」
「分かりました。
私が対応します」
そう言って彼女に向き直る。
「私は担当の看護師です。
今は安静が必要ですので、あちらの部屋でお話を伺います」
言い終えると、振り返り、私たちに小さく頷いた。
カールの唸り声が、少しずつ大きくなっていく。
「あーあ、めんどくさい!」
女性は吐き捨てるように言いながら、別の部屋へと連れていかれた。
一時間後。
看護師さんが戻ってきた。
「もうお帰りいただきました。
大丈夫、安心して」
私は事情が分からないまま、ただ彼女の背中を撫でていた。
母親ではないこと以外、何も分からない。
それでも、不安と恐れだけは確かに伝わってきた。
看護師さんが彼女の手を両手で包み込む。
「何でもしてあげる。
本当に、何でも」
その言葉は、看護師という枠を越えていた。
仕事ではなく、人として向き合っている言葉だった。
その瞬間、父の言葉を思い出す。
「何でもしてやる。何でもだ」
あの時と同じ、まっすぐな響きだった。
けれど彼女の震えは、まだ止まらない。
理由は分からない。
それでも、この不安と恐れは確かに共有されていた。
やがて夕方五時。
あの「故郷」のメロディーが、街のスピーカーから流れ始める。
私は彼女を正面から抱きしめた。
背中をさすりながら、旋律に合わせて静かに鼻歌を重ねる。
少しずつ、彼女の震えが収まっていくのが分かった。
あの老人のハーモニカを初めて聞いた時と同じ感覚だった。
不安も恐れも、一瞬で溶けていったあの感覚。
休ませてあげます。
あの言葉が、心の奥で静かに響き始める。
「……どうしたんだろう。
何も怖くない」
彼女の目が、生き返ったように輝いていた。
これが神の訪れというものなのだろうか。
それとも、上から与えられたメロディーなのだろうか。
あの言葉は、語りかけではなく、約束だったのかもしれない。
私は今、確かに安らぎの中にいた。
そして、その安らぎが彼女へと流れていくのを感じていた。
私は、受け取る側から、伝える側へと変わっていくのだろうか。
信じるという一線が、すぐ目の前に置かれているように感じた。
スピーカーから流れる旋律が、街全体に溶け込んでいく。
夕焼けが、静かに街を染めていく。
彼女も何かを感じているようだった。
「……私は、何を恐れていたんだろう」
夕陽を見つめるその横顔が、あまりにも美しかった。
看護師さんが、ももを抱き上げ、彼女にそっと預ける。
「ももが、一緒にいたいって」
ももは彼女の頬に顔をすり寄せ、気持ちよさそうに目を細める。
彼女もまた、メロディーを小さく口ずさみながら、ももに聞かせていた。
人は、答えの出ない問いに耐えられず、苦しむことがある。
もしかすると、その答えは、神に委ねるために見えないままにされているのかもしれない。
私たちは並んで、夕焼けを見つめていた。
やがて彼女が、ゆっくりと振り向く。
そして、私の目をまっすぐ見て言った。
「友達になりたい」




