第60話 彼女の理由
今こうして、みんなで食事をしている。
もしこれが偶然ではなく、何かの導きだとしたら――
そこには、私のこれからの生き方のヒントがあるのかもしれない。
見落としたくはない、と思った。
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彼女が、私を見て何か言いたそうにしている。
「えっ?」
そう言って顔を向けると、
「ううん……なんでもない。
……ルール、守りたいから……」
少しだけ間を置いて、そう言った。
「そうだね……ルールがあるもんね」
ふたりで、同時に笑っていた。
看護師さんが、静かに微笑んでいる。
自分で決めたあのルールに、
手応えを感じているのかもしれない。
――確かに、いいルールだった。
彼女と私の間にあったはずの見えない垣根が、
もうほとんど消えていた。
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おにぎりも、かぼちゃも、きゅうりもみも、
どれもやさしい味がした。
カールはもう食べ終えて、
ゆっくりと私たちの間に身体を滑り込ませてくる。
ももは相変わらず、休み休み食べている。
その姿が、たまらなく愛らしい。
看護師さんは、ももの背中を撫でながら微笑んでいた。
――その目に、涙がにじんでいた。
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こんな穏やかな時間が、
人には必要なんだと思った。
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彼女が、看護師さんに声をかける。
「あの……カールとももに、さっきのミルクあげてもいいですか?」
透き通るような声だった。
「もちろんよ。
そこの少し深いお皿があるでしょ。大きいのと小さいの、それに入れてあげて」
看護師さんが優しく答える。
「カール、もも、お姉さんがミルクくれるって。よかったね」
その言葉に、カールはすぐに立ち上がり、尻尾を振って待っている。
ももは、まだゆっくり食べている。
彼女がミルクを注いで差し出すと、
カールは一度、彼女の顔を見上げた。
その頭を撫でながら、
「ありがとう……カール……ありがとう……」
彼女は、涙声でそう言った。
カールの首元に顔をうずめるようにして、抱きしめる。
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彼女が柵を乗り越えようとした理由は、
まだ聞かない。
――いや、聞かないと決めた。
彼女が自分から話してくれるまでは、
私は何も聞かない。
看護師さんはきっと、理由を知っている。
それでも、そこに踏み込むべきではない気がした。
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気がつくと、私はおにぎりをひとつ食べ終えていた。
かぼちゃも、きゅうりもみも、
しっかりと味わって食べている。
こんなことは、適応障害になってから初めてだった。
心が落ち着くと、体はちゃんと応えてくれる。
――嬉しかった。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。
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彼女がカールからそっと手を離し、
ミルクの皿を差し出すと、
カールは勢いよく飲み始めた。
舌を上手く使って飲み干す姿に、
生きる力のようなものを感じる。
「おかわり、あげてもいいですか?」
彼女が遠慮がちに聞く。
「もちろん。
でもカールはあげただけ飲んじゃうから、ももの分は残してあげてね」
何気ない、普通の会話。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
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まるで、台風が過ぎ去ったあとのような静けさが、
この部屋を包んでいた。
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そのとき――
ノックの音。
院長が、ひとりの女性を連れて入ってきた。
おそらく、彼女の母親だ。
その瞬間、部屋の空気が一変する。
女性は険しい表情で、室内を見渡した。
彼女の顔が、凍りつく。
次の瞬間、私の後ろに隠れるようにして、
両手を私の背に添えてきた。
――震えている。
看護師さんが、その空気を察して前に出る。
そして――
カールが、小さく唸り始めた。




