第58話 看護師さんの涙
窓際で泣いている彼女に、そっと声をかけた。
「カールがご飯、買ってきてくれたよ……
少しだけでも、食べようよ……」
その時、看護師さんが私の肩に手を置き、小さく首を振った。
――無理に勧めないで。
そう言われた気がした。
私は小さく頷き、彼女から離れた。
カールは、彼女のそばから離れようとしない。
私はももを抱き上げる。
看護師さんは、ももとカールのご飯を用意しながら言った。
「お箸とコップ、そこの棚にあるから出してくれる?」
私は言われた通りに準備を始めた。
その間も、看護師さんは窓際の彼女を見ていた。
そして、ゆっくりと近づき、肩に手を置いた。
「辛かったね……」
その瞬間だった。
看護師さんが彼女を抱きしめ、声をあげて泣いた。
私は息を呑んだ。
あの看護師さんが、泣いている。
どんなことにも動じないように見えていた人が、
目の前で、子どものように泣いている。
そこにあったのは――
助けてあげる、支えてあげる、というものではなかった。
もっと純粋な、人と人とのあいだにある何か。
言葉にできない、まっすぐなものだった。
ももが腕の中で身じろぎする。
そっと床に下ろすと、看護師さんの足をよじ登るようにして近づき、
その頬にそっと顔を寄せた。
涙に触れるように、静かに寄り添う。
何を感じているのかは分からない。
それでも、そこには確かなつながりがあった。
――この人と、この二匹は、ひとつなんだ。
命を守るための、ひとつの存在のように思えた。
私はカールが運んできたお惣菜をテーブルに並べ、
箸とコップを置き、ももとカールのご飯を床に用意した。
その手を動かしながら、ふと思う。
私は今、彼女を通して自分を見ている。
適応障害になって、初めて与えられた視点だった。
目が開かれるというのは、こういうことなのかもしれない。
――救われているのは、私の方だ。
そう思った。
適応障害になり、あの老人と出会い、
看護師さんと出会い、そしてこの女性と出会った。
この巡り合わせが、偶然だとは思えなかった。
少し前まで、何の関わりもなかった人たちが、
今こうして同じ場所で涙を流し、同じ時間を過ごしている。
人が人と出会うことに、意味がないはずがない。
目には見えない何かが、確かに働いている。
そうとしか思えなかった。
看護師さんが、彼女の肩を抱くようにしてテーブルへと導く。
私はポットからお湯を注ぎ、ティーバッグでお茶を入れる。
「どうぞ」
彼女は小さく頷いた。
「じゃ、いただきましょう」
その言葉に合わせるように、ももとカールも食べ始める。
ももが両手を揃えて食べる姿が、やけに愛おしい。
その光景を見ていて、ふと気づいた。
――喉が締め付けられる感じが、ない。
あれほど苦しかった感覚が、消えている。
信じられなかった。
私は、静かに息を吸い込んだ。




