第56話 病院でお泊まり
看護師さんは、
「じゃ、ちょっと、女性に会ってくるから、
ももとカールお願いね」
それだけ言って、エレベーターに向かった。
命の優先順位がはっきりしている人なんだと思った。
何を一番大切にするべきか、迷いがない。
使命がぶれない。
私のことは大丈夫だと判断してくれた。
そう思ってもらえていることが、素直に嬉しかった。
私は夕陽を眺めながら、あの老人の言葉を思い出していた。
日本人の夕陽でも、アメリカ人の夕陽でもない。
夕陽は、すべての生き物のためにあるものだと——
同じように、特定の民族の神などいないとも書かれていた。
その言葉が、静かに心に沁みてくる。
ももとカールが、どれほど命の重さを理解していたのかは分からない。
でも、看護師さんが話してくれた、あの不思議な出来事。
心臓マッサージが必要な人に巡り合ったことや、
酔っぱらいに見えた人を救った話。
それと同じように——
ももとカールにも、何かが働いていたのではないかと思えてならない。
見えない導き。
差し伸べられる手。
柵を乗り越えようとした彼女に、
見えない手が差し伸べられ、
ももとカールは、それに従ったのではないか。
そんな感覚が、胸の奥に広がっていく。
目を凝らして周りを見渡せば、
説明のつかない出来事は、確かに存在している。
私は、そのすべてを急いで「神」と呼ぶつもりはない。
でも、確かに何かに導かれている——そう感じていた。
その時、カールがもものリードを咥えて、私に差し出してきた。
「分かった。行こう。案内して、カール」
エレベーターの方へ向かうと、
ももが私の体によじ登ってきた。
そうだ。ももはエレベーターが怖いんだった。
「カール、階段で行こう。案内して」
ももを抱き上げ、カールの後について歩き出す。
カールは迷うことなく、四階の一室へ入っていった。
六畳ほどの部屋だった。
中には、ももとカールのベッドが並んで置かれている。
看護師さんのデスクと簡易ベッドもあった。
ここでよく過ごしているのだろう。
ももを撫でていると、カールが私の膝に顎を乗せてきた。
やきもち焼きなのは、相変わらずだ。
その時、ドアが開いた。
看護師さんと、あの女性だった。
「もう来てたの」
看護師さんが優しく声をかける。
彼女は何も言わず、うつむいたままだった。
「こんにちは」
私が声をかけても、返事はない。
看護師さんが言った。
「ちょっと狭いけど、今日はみんなでここに泊まりましょう」
するとカールが、彼女の方へゆっくり近づいていった。
そして、噛みついたあの足に、そっと鼻をつける。
その瞬間——
彼女の目に涙があふれ、
その場にしゃがみ込んで、カールの首に抱きついた。
カールは尻尾を振りながら、
全身で喜びを表現している。
まるで、再会を喜んでいるかのようだった。
看護師さんが、軽く手を二回叩いた。
「みんな、聞いてね。
今日は“誰も誰かに質問しない”というルールで過ごします。いい?」
「はい」
私が答える。
彼女は黙ったままだった。
「あとでスタッフが布団を持ってきてくれるから、今日は床に布団で寝ましょう」
まるで幼稚園の先生のような、やわらかい口調だった。
カールは、彼女の足の包帯を気にしているようで、
何度もその匂いを確かめている。
その時、ノックの音がした。
院長が、メロンとケーキを持って入ってきた。
その時だった。
彼女が、ゆっくり顔を上げて、窓の外の夕陽を見つめた。
そして、ぽつりと言った。
「きれいな空……」
その声を、私は初めて聞いた。
透き通るような、きれいな声だった。




