第54話 カール
看護師さんが、覗き込むように私を見る。
「今日、ここに泊まらせてもらうこと、できる?」
「……」
一瞬迷った。
でも、その言葉はありがたかった。
恥ずかしがっている場合じゃない。
「はい……どうぞ」
「良かった」
ほっとしたように笑う。
「知ってる?この近くにある銭湯。
駅の反対側にある“大正湯”っていうお風呂屋さん。
私の趣味、銭湯巡りなの」
少し楽しそうに続ける。
「いろんな地域のお風呂屋さん知ってるのよ。
家のお風呂より銭湯が好きでね。
時間がない時はシャワーだけど、それ以外はだいたいお風呂屋さん」
今日はよく喋ってくれる。
それでも、私の状態については何も聞いてこない。
私から話すのを、ただ待ってくれている。
押し付けがましさが、まったくない。
「あとで一緒に行く?どう?
知ってる人と行くの嫌な人もいるけど……」
「ぜんぜん嫌じゃないです。行ってみたいです」
自然に言えた。
「良かった」
そして、少し思い出したように言う。
「あ、それから……ついでに、ももとカールもいい?
泊まっても。
私がいないと、あの子たち一晩中探し続けるから」
「嬉しい……どうぞどうぞ。
カールには少し狭いと思いますけど……
今、どこにいるんですか?」
ももとカールの名前を聞くだけで、心が軽くなる。
ももを抱いた時のやわらかさや、カールの毛並みの感触が蘇ってくる。
「あの子たち、まだ病院の屋上にいるよ。
三時ごろまで子どもたちと遊んでるはずだから、夕方になったら迎えに行くね」
「私も一緒に行きます」
「うん……でも、このマンション、ペットだめだよね。
エレベーターに“ペット禁止”って書いてあったから」
少し考えるようにして言う。
「管理人さんに話しておいた方がいいと思うの。
さっき来た時、管理人室に誰もいなかったみたいだけど」
「話せば、許可してもらえるでしょうか?」
「一晩だけだけど、ちゃんと許可はもらわないとね。
どんなルールにも例外はあるはずだから、大丈夫だと思うよ」
その時だった。
看護師さんのスマホが鳴った。
病院からの着信のようだった。
画面を見た瞬間、表情が変わる。
通話に出て、短く応答する。
「……はい、今から戻ります」
電話を切ったあと、私を見る。
「カールが……屋上で患者さんの足を噛んで、怪我させたみたいなの」
信じられない、という表情だった。
「そんなことするはずないのに……
とにかく、すぐ戻らないと……
ごめんね」
「私も行きます」
「うん……行こう」
*
すぐにタクシーを拾えた。
二十分もかからずに病院に着く。
車の中で、看護師さんは静かに言った。
「あの子は、理由もなく人を噛むようなことは絶対にしない。
人に足を踏まれても、そんなことはしない子なの」
強く言い切った。
それだけ、カールを信じているのが分かる。
病院に着くと、そのままエレベーターに乗る。
看護師さんは、屋上のボタンを二回押した。
扉が開く。
屋上には、いつもと変わらない光景が広がっていた。
カールは、子どもたちに囲まれて頭を撫でられている。
穏やかな顔だった。
院長がこちらに気づいて、明るく笑った。
「カール、お手柄だったよ」
そう言って、看護師さんを見る。
「さすが、あんたの子だ」
看護師さんは、すべて分かっているようだった。
分かっていないのは――私だけだった。




