番外編
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本日、都合により
私は私のままでも行く(連載中)
が投稿出来ませんでした。4/13月には再開させて頂く予定です。
その代わり、いつかこのことをお知らせしたいと思って書いていたことを載せてみます。
是非、お読みください。
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今日はこのふたつの小説を書くにあたっての私の迷いと葛藤について、書いてみたいと思っています。
私だけかもしれませんが小説を読んでいる時、誰のセリフだろうとわからなくなってしまうことがよくあったのです。
また、〇〇君が言ったと書いてあっても〇〇君て誰?
となってしまうことがよくあるのです。
登場人物が増えて来ると誰が誰なのか混乱して、読むのをやめてしまうのです。
小説によっては冒頭に誰が誰かわかるように系図のようなものが親切に書いてあったりするのですが、
あの系図を見ると怖気付いてしまうのです。
これを頭に叩き込まなければだめなんだ!
覚えられない。
わからなくなれば、その系図を見ればいいでしょということだと思うのですが、私はそれが苦痛なのです。
世間の読者は登場人物の名前や親、兄弟、友人、親戚、他人などの関係性を覚えながら読んでいると思うと感心させられてしまうのです。
小説以外の本は読めるのに、小説を読もうとすると登場人物覚えという怪物が立ちはだかって、一気にハードルが上がって戦意喪失するのです。
私は特別なのでしょうか?
そんなこともあって、一作目の[命終えても街を彩る落ち葉のように]は登場人物は最小にしようと考えてました。
名前もあまり出さないようにしたのです。
二作目の[私は私のままでいく]も登場人物は少なく、しかも、ひとりの名前も出てきません。
主人公の名前すら出てこない小説なんて...
と思ったのですが、分かりやすさを優先したかったのです。
名前を書いた方が誰のセリフかよくわかるのではという意見もあるかと思いますが、自分の思うようにしてみたかったのです,
主人公の名前も出てこないことがストレスになる場合もあるかもしれません。
できるだけ登場人物を少なくしてシンプルにすることを心がけました。
名前がひとりも出てこないのはそういう私の思いがあったのです。
何よりもわかりやすさを大切にしたかったのです。
二作目はまだ連載中ですが、どうぞ最終章までお付き合いください。
このふたつの小説に共通しているテーマは2つあります。
適応障害というメンタルに関することともう一つは日本人には理解しにくい外国人の視点です。
特にキリスト教国に焦点を当てています。
繋がりのないテーマに思えるかもしれませんね。
宗教くさい話はいやだなーと思われる読者もおられると思います。
しかし、しっかり目を開けて今の時代を読もうとする時、私たち日本人には避けて通ることの出来ないテーマになっています。
この波は弱まることはないでしょう。
自分が自分のままで自分らしくこの時代を生きてゆくには、必要な視点であり感覚だと私は思っているのです。
メンタルの問題を抱えておられる読者さまに今の状況から抜け出すだけではなく、この心の病がなければ気がつかなかったという視点をこの小説から嗅ぎ取って下さればありがたいです。




