39 電話ボックス
母は薬のせいだろう。
まだ眠っている。
私は自分の布団を畳んで、眠っている父の肩を軽くて叩く。
振り向く父に
「お金ありがとう。
今日はこれで帰ります。
お母さんの様子、聞きたいからまた電話します。」
「わかった。お母さんのことは何も心配いらないから...
次の仕事のことも焦らなくていいから...
今はゆっくり休みなさい。
何も食べなくていいのか?」
「うん。帰って食べるから...」
玄関で靴を履いている時、母の声がした。
「私のことは心配いらないから...
大丈夫だから...
自分を大切にしなさいよ...
わかった?...」
母は起きていたのだ...
母は目を瞑ったままだった。
まだ目眩がするのだろう。
会話したいが、話しかけないほうがいい。
無理させたくない。
そう思った。
「分かった、また来るから...」
それだけ言って玄関の扉を閉める。
少し歩いて振り向いてみる。
自分が生まれ育った木造の家を眺めると、
時代が移り変わっていたことを実感する。
*
駅に着くと通勤の時間になっていた。
仕事に行く人達に囲まれると、焦る気持ちと情けなさが入り混じって、あの不安と恐れがまた襲ってきた。
人混みが耐えられなくなっている。
気分が悪くなり、券売機の前でしゃがんでしまった。
この人混みの中にはいられない。
駅とショッピングモールを繋いでいる通路まで手すりを使って歩き出す。
そのままモールの前まで行くと、天井のないスペースが設けられていた。
そこに、大きな丸いベンチ...
助かった...
直系5メートルくらいある丸い花壇を一周ぐるりと囲んでいる長いベンチだ。
30人は座れるくらいの大きなベンチだった。
太陽の光が降りそそぎ、風が気持ちいい。
外気に触れられる。
ここに座って通勤ラッシュが終わるまでじっとしていることにした。
大丈夫、じっとしていれば落ち着くはずだ。
弱きになると、恐れが膨らむ。
急いで帰る理由も用事もない。
私の今の仕事は心に負担をかけないことだ。
自分の心を守ることだ。
だから今、自分はちゃんと仕事しているんだ。
恥じることはない。
母の病気のことや、お金のことで嫌でも心は重たくなるが、それはどうしようもない。
ふと、あの看護師さんが病院で行っている会に行って、私と同じようなメンタルの問題を抱えている人たちの話を聞いてみたくなった。
人混みも怖いが、ひとりでいるのも怖いのかもしれない。
それにあの看護師さんは信頼できる。
通勤ラッシュが落ち着くまで時間がある。
電話してみようか?
スマホはないが、モールの入り口のすぐ横に公衆電話ボックスが見えている。
あの会では何も話さなくていいと言っていたし、聞くだけでいいとも言っていた。
誰からも何も質問されないから安心できる...
行ってみたい。
ここで足踏みしていても出口は見えて来ない。
聞いてるだけでもいい。
話したくなったら話せばいい。
聞いてもらって楽になるなら、楽になりたい。
私は会社にいた時も、自分の気持ちをあまり表現していなかった。
それは違うと思っていても、口には出さなかった。
私は何を恐れていたんだろう?
口論になったり、恥をかかされたりすることを恐れていたんだろうか?
この心の病になってからよく考えることがある。
私は私の性格が嫌いではない。
むしろ好きだと言ってもいい。
私は私のままでいたい。
この誰とも口論したくないという思いを大切に生きていきたい。
喧嘩するのが怖い。
嫌な思いをするのが怖い。
この弱さを治さなければ適応障害から立ち直れないなら、私には出来そうにない。
こんな気持ちを誰かに話してみたい。
あの看護師さんにも聞いてもらいたい。
気分はあまりよくなっていないが、私は財布の中の小銭を取り出し、電話ボックスを目指して足に力を込めて歩き出した。




