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35 真水の匂い

耳で聞こえたというのが正確な表現かどうかわかりませんが、はっきりと確かに聞こえたのです。


私以外誰もいない海岸でのことです。


あの海岸で真水の匂いがしたのも事実です。

そして、確かに休ませてあげますと聞こえたのです。


心に響くような透明感のある声でした。

耳の聞こえない私が、聞こえるはずのない声を聞いたのです。


山一面を覆う色鮮やかな紅葉、真っ青な雲ひとつない青空、真水の匂い、そして休ませてあげますという声...


気がつくと、さっきまでの怒りが嘘のように消えているのです。


不思議な気持ちで、輝く海を見ていました。


悔しさや怒りがまったくない気持ちで海を見るのは久しぶりのように感じました。、


輝く海を見ていると、あの八重子の楽しそうに喜んでいる顔が浮かんでくるのです。


本当に不思議でした。


八重子を思い出す時は、いつも亡くなる間際のあの惨たらしい姿と絞り出す様なあの声でした。


八重子の喜びに満ちた表情と楽しそうな声が聞こえてくるのです。


私は妄想しているのか、眠って夢を見ているのかわからなくなっていました。


ふと我に帰ると、私は砂浜に仰向けになって眠っていたのです。


夕陽が水平線からちょうど半分くらい見えていました。


いつ眠ったのだろう?


まったく分からないのです。

思い出すのは八重子の楽しそうに喜んでいる顔、そしてあの休ませてあげますという声でした。


私は自分の90歳という年齢を考えていました。

あとどの位時間が残されているか分かりませんが、そんなに長くないことは分かっていました。


この体が動かなくなって死んでいくまでに、あの声の正体をどうしても知りたくなったのです。


その時、夕陽を見ながら考えていました。


以前あなたにも話したと思いますが、アメリカ人にはアメリカ人の神、日本人には日本人の神という考えは間違っているのではと思えてきたのです。


それはあの夕陽はアメリカ人の夕陽ですか?

それとも日本人の夕陽ですか?

と問うのと同じくらい愚かな質問だと思えたのです。


私にとって、戦争は人間のあらゆる残虐性をむき出しにして、すべての人を巻き込んで通り過ぎる巨大な竜巻のようでした。


一瞬で普通の生活が吹き飛ばされて命を奪ってゆくのです。


そんな状況の中で、生き残った者は怒りと憤りによって判断力を失い、私のように怒りの人となってしまうのだと気がついたのです。


私は決心しました。

私の残された時間を使って本当のことを突き止めると...


あの休ませてあげますという声が何処からくるのかをどうしても知りたかったのです。


休ませてあげますの言葉を聞いた後、何故私の怒りが鎮まったのか?


今まで八重子の喜んでいる顔を思い出したことは一度もなかったのに、何故八重子の嬉しそうな顔が見えたのか?


何故、岡野貞一というキリスト者の故郷と紅葉が忘れようとしても、捨て去ろうとしても、聞こえてくるのか?


それが分かるまで、私は死ねないと星空を見ながら思ったのです。

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