31 ビール色の部屋
父は何も言わずに、ティッシュを箱ごと私の膝の上に置いた。
私は封筒を両手で持って、父の目を見て軽く頷いてバッグの中にしまう。
声が詰まってありがとうが言えない。
でも気持ちは伝わっているのが分かっていた。
「桃とブドウのゼリーがある、食べるか?.」
「うん...食べる...」
声にならなかったが、父には通じたようだった。
冷蔵庫からゼリーふたつとスプーンを持ってきて私の前に置き、すぐ母のもとに行って、枕元に座って自分のお弁当を開く。
振り向いて、私に
「携帯繋がらないけど ...」
「うん... ちょっとね...」
「そうか...」
父が何をどう理解しているのかわからないが、私の歯切れが悪いと、それ以上聞かないし、何も言わない。
ありがたい...
以前の父はこんなじゃなかった。
その時、また思った。
父は母にも、あれこれ聞かないようにと強く言い聞かせすぎたのかもしれないと...
母は私にいろいろ聞いたり話したりしたかったはずだ。
それを父に止められていたので、母にとってはそれもストレスになっていたのかもしれない...
そう感じる。
本当のところはわからないが...
考えすぎるのはやめとこう。
看護師さんが教えてくれた私の心の癖がでている。
心配するのはやめたい。
私はゼリーを持って、父と反対側の枕元に座り、
母の肩にそっと手を置いた。
呼吸の浅さが伝わって不安になってしまう。
母は起きていたのか、今起きたのかわからないが、少し青白い顔で
「すぐ治るから、大丈夫だから」
と、かすれた声で囁くように言う。
顔を覗き込むと母の眼球が小刻みに左右に揺れていた。
めまいがひどいんだ。
「お母さん...
喋らなくていいから...」
それだけ言って母の背中を撫でる。
父が
「もし、泊まらないなら暗くなるまでに帰って休みなさい。
お母さんは大丈夫だから...
...弁当...
食べられるだでいいから、持って帰りなさい」
やっぱり摂食障害のことも理解してくれていたんだ。
「うん...ありがとう...
もう少し母の横にいるから」
そう言って母の足元に座り直して、足をさすろうとして手が触れた時、ギョッとした。
足全体が氷のように冷たい。
父は無表情でお弁当を食べてる。
母の足の冷たさが私を引きとめた。
「お父さん、今日泊まることにする。
お母さんの横に布団敷いてここで寝る」
「そうか...
分かった...」
と言って立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを出してキッチンで私に背中を向けたままビールを飲んだ。
振り向いて、
「ビール飲むか?」
「飲まないよ」
親子らしい会話になって気持ちが楽になってきた。
私は自分の口から出た言葉に驚く。
「やっぱり少しビール飲んでみる」
父は嬉しそうな声で
「そうか...そうか...」
と言って、もう一本缶ビールを冷蔵庫から取り出して
「ほら...」
と差し出す。
「お父さんが今持っているのでいい。一口しか飲めないから」
「いいから、ほら」
プシュー
「ほら...残ったらお父さんが飲むから」
「うん...」
お父さんの嬉しそうな顔が見れただけでも来てよかった。
お母さんは寝息を立てて静かに眠っている。
一口ビールを飲んだ。
やはり甘くないので美味しくはなかった。
「ごめんなさい、やっぱり飲めない...」
でも、お父さんは嬉しそうな顔をして、私から缶を受け取り、一気に全部飲み干した。
私の目を見て、
「お母さんもお前もきっと良くなる...
きっと良くなる...うん..うん...」
お父さんの目が少し赤くなっている。
あの海岸と同じ夕陽がこの部屋にも差し込んで壁紙がビール色になっている。
お母さんに目をやるとさっきまでの青白い顔に少し赤みが戻ってきていた。
気持ち良さそうに寝ている母を見て少し安心して、また泣いてしまった。
私はこの父と母に育てられたことを、こんなに感謝したことは今までなかったかもしれない。
適応障害にならなければ、気づかないまま過ごしていただろう。
そう素直に感じていた。




