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28 園児達の歌声

翌朝...

目が覚めると、テーブルの上にあるノートが気になっていたが、そのまま触らないようにしていた。


避けたかったのではない。

時間をあけたかった。


今は現実問題と向き合わなければならない。

光熱費、電話代、スマホ本体はないが、支払いは残っている、家賃に食費...


両親に電話ではなく、直接会って適応障害のこと、今の状態を伝える必要がある。


一気に気持ちが重たくなった。

今月だけの話ではない...


新しい仕事のことも考えなくてはならないが、この病の回復の見通しがまったくつかない。


見通しがつかないことは恐ろしい...

また、過呼吸になりそうだ。


あの看護師さんに聞いてもらおうかと思ってもみたが、お金を貸して下さいと言っているのかと思われる可能性もある。


それは絶対いやだ。

だから今の気持ちを聞いてもらうことも出来ない。


話したくても話せない。


特に父には会いにくい。

私はこの病から回復して、また仕事を探して自立して生きていきたい。

これが私の本音だ。


しかし、父にこれからはここで一緒に住みなさいと言われそうで、それを恐れている。

今は断れる立場じゃないから...


私は悶々とした気持ちを抱えながら、外の空気を入れようと窓を開けると、少し離れた所にある幼稚園から園児たちの歌が聴こえてきた。


秋の夕日に照るやまもみじ

濃いもうすいもかずある中に..


あの老人もハーモニカで聴かせてくれていた曲だ。


窓際にハーブティーを入れたカップを持ってきて聴き入った。


気持ちが少し楽になる。

園児達の歌声は純粋無垢だ。

脳に吸い付くように沁みてくる。


もみじの曲が終わると、オルガンとカスタネットが加わり、犬のおまわりさんを元気いっぱいの声で歌う。


犬のおまわりさんの歌詞を思い巡らせて、お風呂に潜って泣いた時の記憶が蘇る。


実家に行くことと、お金のことを一瞬忘れさせてくれた。


でも、現実からは逃げられない。

気持ちは重たいが明日夜、実家に行く。

そのことを今夜電話する。


明日のことは明日考えよう。


考えるだけで疲れてしまう。

甘えているのではない。

こういう病なんだからどうしようもない。


ひとりで外の風に吹かれてぼーっとしていたい。

あの海岸に行って潮風に吹かれよう。


あまり何も考えず、バッグにハーモニカとあのノート、それにバナナとハーブティーを入れて部屋を出た。


ひとり部屋にいるより、広い海岸に引きこもる方がいい。


あの海岸は私が私でいられる特別な場所になっていた。


*


海岸について波打ち際に目をやると、あのハーモニカの音が聴こえてくるようだ。


夕陽に照らされたあの老人の笑顔が見えてくる。


ノートは一応持ってはきたが、読むか読まないかは自分のその時の心に任せることにしていた。


何も考えず潮風に吹かれるまま海を眺める。


ひとりだけの静かな時間が流れていた。


スマホを持っていた頃は景色を見るという時間はまったくなかった。

今は景色にも匂いがあると気がつくようになっている。


雨の日は雨の匂い、夕暮れの商店街には商店街の匂い...


景色だけではない、心の状態にもそれぞれの匂いがある。


気が重い時の匂い、心が解放された時の匂い。

泣いている時の匂い...


どれもこれもあのタブレットとスマホに別れを告げる前はそれぞれの匂いに気がついたことはなかった。


海面が夕陽に照らされて輝きだす。

気持ちいい...


落ち着いてきたのでノートを開いてみる事にした。


=================================

~~~私の怒りの矛先はアメリカはもちろんですが、日本人クリスチャンに向けられていったのです。


助けの手を差し伸ばさなければならない苦しむ同胞の日本人をほったらかしにして、アメリカになびく日本人のキリスト教徒を殺してやりたいほど憎みました。

===============================


ここからだ。続きを読んでみる。


お菓子をもらって喜ぶ子供達、外国の神を信仰する日本人...


国土を焼き尽くし、命を取り去ってしまう戦争。


それだけではなかった。

生き残った人間の心まで破壊してゆく...


私は何もかもがアメリカにひれ伏してゆく事に我慢がならなかったのです。


戦後2~3年経った頃だったと思います。


宣教師たちは英語教育や救援物資の配布などを通じて社会に深く関わるようになってきたのです。


宣教師らと共に日本人キリスト教徒が布教活動をしていました。


彼らの活動を目にするたび、私は我を失うほど心が掻き乱されました。


私の怒りは八重子の亡霊と一体化して燃え上がったのです。


その怒りで、自分が何をしでかすか分からなくなり、恐ろしくなって布教活動を目にすると逃げ去るようにその場を離れていくようになっていったのです。


ノートを閉じた。

やはり少し怖い。

今の私には重た過ぎる内容だ。


あの老人が文字を書くのが早い事は知っていたが、死を前にしてこんな長い文書を書くことが出来るのだろうか?


それともこのノートを書くことで、死期をはやめてしまったのだろうか?


考えない方がいい。

あの看護師さんは安らかな顔だったと言っていた。

それを信じたい。


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