27 導き
ここでノートを閉じる。
老人のノートに書かれてあることは、私の想像を遥かに超えている。
最初の1ページだけにしようと思って読み始めたが、気がつくと吸い込まれるように文字を追っていた。
私の知っている老人はあの海岸でハーモニカを歌うように吹いて、そしてこれ以上ない笑顔を見せてくれる人だった。
あの人が書いたものだとは、とても思えない内容で身震いした。
私は今、適応障害で苦しんでいるが、あの戦争の時代の人々の苦しみとは比べものにならない。
八重子さんの痛みや嘆きを本当の意味では理解すら出来ていないと思う。
その八重子さんを間近で見ながら、助けてあげる事が出来なかった兄として、老人はどんなに苦しかっただろう。
老人の笑顔の裏には壮絶な過去が潜んでいたのだ。
今日はもうこれ以上、ノートを読むことは出来ない。
ふと老人の言葉を思い出す。
あの海岸でハーモニカを吹くのは神との会話だと言っていた。
どういうことだろう?
八重子さんやご両親の死について神の説明を求めていたのだろうか?
だとすれば、あの老人の笑顔や穏やかさの説明がつかない。
わからないことだらけだ。
それに、何故私があのハーモニカの音色を聞いた瞬間に恐れや不安が溶けてなくなっていったのだろう。
わからない...
白湯を飲みながら心を落ち着ける。
ソファーに座って自分自身を振り返っていると、あることに気がついた。
私には心の中に柱というか芯のようなものがない。
心がぐらつかないように、揺れによって崩壊しないように、そのために掴まえるものを何も持っていない。
これを手放してしまうと自分ではなくなるというものを持っていない...
これだけは絶対譲れないという確かなものがない気がする。
あの老人の悟りきったような笑顔はそれを見つけたということだろうか?
最後まで読めば老人のメッセージはわかるだろう。
しかし、私の心の反応をじっくり見つめながら読み進めていきたい。
あの人がご自分の命を削るように最期の時間を割いて書いてくれたんだ。
*
電話が鳴った。
勘が働く。
多分看護師さんだ。
「こんにちは、今、お話大丈夫ですか?」
やっぱり看護師さんだ。
「はい、大丈夫です」
「特に用事はないんだけれど、どうしてるかなと思って、気持ちは安定していますか?」
「はい、実は今、あのノートを少し読んでみました。
最初の方だけですけど...」
「そう...
あなたが、気持ちの準備が必要だとか言っていた言葉が少し気になってたの。
あのノート、あの方が最後に書き記したものだから...
軽い内容ではないはずだと思っていたので...
ひとりで背負い込むのが大変だったら、お電話くださいね。
何でも聞くから...
最後まで付き合うから...
私の患者さんだったんだから...
自分の心と気持ちを大切にしてね」
「ありがとうございます」
短い電話が終わった。
受話器を置くと涙が溢れ出た。
看護師さんの優しさが身に沁みる。
私は自分の心が不安定になっていたことに気がついていなかった。
自分の涙が教えてくれた。
自分の感情の振れ幅の危うさに今さらながら気がついた。
その境界線に気づかず、そこを超えてしまうと私の場合、メンタルは不具合を生じる。
忘れないようにしよう。
気をつけないと....
*
あの海岸でタブレットとスマホに別れを告げてからわずかの期間にふたりの方と知り合った。
それも今まで私のまわりにいた人の誰よりも密接な関係だ。
人生が見えない何かに導かれるとは、こういう事なのかもしれない。
あの老人は私に特別な何かを渡そうとしているのだ。
そう感じる。




