第250話 小説を書いてみたい
「何でもない」
私は、彼女にそう答えた。
「何でもないような顔してないよ。
まあ、いいか。
話したくなったら、いつでも聞くから。
まだバイト中だから、またあとでね」
そう言って、彼女は足早にカフェへ戻っていった。
*
私はいったん部屋に戻り、ももとカールのお昼ご飯を用意した。
看護師さんは、まだ帰っていない。
一人になって、頭の中を整理したかった。
私は、一度にいろいろなことを考えるのが苦手だ。
適応障害のせいもあるのかもしれない。
でも、もともと気持ちを素早く切り替えることが得意ではなかった。
今は、母の退院の見通しが立ったことを喜んでいたい。
変な癖なのかもしれないが、私は喜びも悲しみも、しっかり味わってからでないと、次のことに向かえない。
まだ退院が決まったわけではない。
それでも、母の元気そうな声を聞けたことが、うれしくて仕方なかった。
今は、その気持ちを一人で抱えていたかった。
ふと、屋上に行きたくなった。
ももとカールもついてきたそうだったが、今日は一人になりたかった。
「ごめんね。ちょっと行ってくるね」
二匹に声をかけ、部屋を出た。
屋上には、気持ちのいい風が吹いていた。
風の来る方へ体を向ける。
すると、また、あの言葉があふれてきた。
「ありがとうございます」
一度口にすると、次から次へと出てきた。
「ありがとうございます。
ありがとうございます……」
自分でも、しつこいと思うほどだった。
でも、止まらなかった。
頑張り続けてきた父と母に。
そして、私たちを支えてくださった神様に。
そんな気持ちだったのだと思う。
*
私は、屋上の柵の前まで歩いていった。
そっと、鉄製の柵に手を触れた。
彼女が飛び降りようとして、乗り越えたあの柵だった。
目を閉じる。
あの日のことが、よみがえってきた。
彼女が、飛び降りなくてよかった。
本当によかった。
また、感謝がこみ上げてきた。
私は柵から手を離し、少し離れたところで立ち止まった。
私にできることを見つけたい。
そんな思いが、胸の中にあった。
屋上から見える景色を眺めているうちに、一つの願いが、少しずつ形になり始めた。
それを言葉にしようとしても、うまくまとまらない。
私は思いつくことを、持ってきたメモ帳に書き留めた。
そして、ふと浮かんだ言葉を書いた。
『小説を書いてみたい』
書いた文字を見つめた。
自分でも、驚いてしまった。
考えたこともなかった。
どうして、小説なのだろう。
あまりにも現実離れした願いのように思えた。
でも、よく考えてみると、小説家になりたいわけではない。
そんな大げさなことではなかった。
自分が思ったこと。
考えたこと。
これまで経験してきたこと。
そんなものを、文章にしてみたいだけなのだ。
誰にも迷惑はかからない。
紙とペンがあれば始められる。
誰かに認めてもらう必要もない。
自分に正直になって、書いてみればいい。
何も、難しく考えることはないのだ。
それから一時間ほど、屋上でそのことを考え続けた。
そして、一つだけ決めた。
まずは、書いてみよう。
*
午後二時五十分。
もうすぐ、彼女が帰ってくる時間だ。
三時を少し回った頃、ドアが開いた。
彼女の足元に、ももが駆け寄った。
私は、彼女が腰を下ろすのも待たずに話し始めた。
「私、小説を書こうと思ってるの」
彼女は眉を上げた。
「小説?
小説家になりたいの?」
「ううん、そうじゃない。
そんなことは考えてないの。
仕事を見つける前に、一つだけ小説を書いてみたいの」
「それで?」
「それでね……
最初からストーリーを考えるのは、私には難しいと思うの。
だから、あなたのことを書いてみたい」
「私の?
私の何を?」
「どうして神様を信じるようになったのか、そのことを」
彼女は、私の顔を見つめていた。
「もちろん、全部話してほしいわけじゃないよ。
話したくないこともあると思うから。
それに、書いてほしくないことは、書かない。
まずは、あなたの気持ちを聞いてみたいの」
「あなたは本当に、びっくりすることを言うよね」
彼女は、少し考えてから言った。
「でも、いいよ。
私のことが小説になるなんて、なんかおもしろそうだし……」
「ありがとう。
それでね、もう少し聞いてほしいの」
私は、彼女の顔を見た。
「私、娘さんに手紙を書きたいって言ってたでしょ」
「うん」
「何を、どう書けばいいのか、ずっと考えてたの。
旦那さんから暴力を受けて、心に傷を負った娘さんに、私が何を書けるんだろうって。
娘さんの痛みをわかっていないのに、何を伝えられるんだろうって……」
私は、少し言葉を探した。
「それでね、あなたのことが頭に浮かんだの」
彼女は黙って聞いていた。
「友達だから、遠慮せずに言わせてね。
あなたも、暴力を受けていたでしょう。
でも、その時のこと、私は詳しく知らない。
だから、あなたの苦しみが全部わかるなんて、言えないの。
それでも、あなたがどんなことを感じて、どうやって今のあなたになったのか。
もし話せることがあるなら、聞かせてもらいたいの」
彼女は、私から目をそらさなかった。
「あなたの体験と娘さんの体験は、同じじゃないと思う。
でも、何か届くものがあるかもしれない。
そう思ったの」
私は、いつの間にか夢中になって話していた。
「それだけじゃないの。
神様の福音を伝えたいの。
いつか本にして、同じように苦しんでいる人にも読んでもらいたい。
娘さんのためだけじゃないんだと思う」
言葉が次々に出てきた。
「でも、私もあなたも、神学を勉強したわけじゃないでしょう。
知識は、まだそんなにない。
それは、わかってるの。
でも、私たちが通ってきた道のことは、書けると思うの。
苦しかったことも、あの時どう感じたのかも。
自分の言葉で、正直に書くことはできると思う。
今しか書けないことを、書いてみたいの」
私は、思いの丈を話していた。
話しているうちに、これは自分の心の底から出てきた願いなのだと、はっきりしてきた。
ずっと胸の奥でくすぶっていた、あの小さな炎。
もう、見ないふりはできなかった。
「もちろん、あなたのことを書くなら、書いたものを読んでもらってからにするね。
嫌だと思ったところは、遠慮なく言ってほしいの」
彼女は、ももを抱き上げた。
「わかった。
応援するよ」
そう言って、笑顔を見せてくれた。
その時、カールがドアの方へ駆けていった。
看護師さんが帰ってきたのだろう。
彼女が言った。
「看護師さんも、私のことを書いてって言うと思うよ」




