第249話 母の声
午前十一時。
彼女は今日から、アルバイトの時間が午後三時までになった。
看護師さんは、もう少し休みを取ることになったらしい。
ただ、今日は若い看護師さんの指導のため、一日だけ出勤することになっていた。
私は、一人になった時間を使って、娘さんへの手紙を書いてみようと思っていた。
思うままに。
心を落ち着けて、ゆっくりと書きたかった。
でも、その前にしておきたいことがあった。
母の声を聞きたかった。
私は、しばらく母への電話を控えていた。
自分の調子が良くなったと報告できるまでは、電話をしないと決めていたのだ。
病気の母に余計な心配をかけたくなかった。
心配すること自体が、母の負担になるような気がしていた。
でも、まだ完全ではないものの、私の体調は少しずつ良くなっている。
母の声が聞きたい。
そう思ったら、じっとしていられなくなった。
私は中庭にある電話ボックスへ向かった。
受話器を取り、父のスマホの番号を押した。
「もしもし、私です」
「ああ、調子はどうだ?」
父の声だった。
元気そうだ。
それだけで、少しほっとした。
「お母さんは?」
「ちょっと待て。代わるから」
しばらくして、
「もしもし、調子はどう?」
母の声が聞こえた。
うれしかった。
思っていたより、ずっと元気そうな声だった。
「ありがとう。私は少しずつ良くなってきてるよ。
お母さんはどう? めまいはまだする?」
「だいぶ良くなってきたよ。
完全には治らないかもしれないって言われてるけど、少しくらいめまいがしても、気分が悪くならなくなったの。
それでね、あと一週間くらい様子を見てからだけど、退院できそうなの。
転ばないように気をつければ、日常生活もできるでしょうって、先生が言ってくださったの」
「そう……よかった。
少しめまいが残ってても、気分が悪くならないなら、よかったね。
私も、少しずつ食べられるようになってるから。
安心してね」
「そう。それはよかった。
お父さんに代わるね」
再び父の声が聞こえた。
「もしもし。まだスマホないのか?」
「うん。持ってない」
「そうか。
じゃあ、次の月曜日の夜にでも電話をくれるか。
その日、退院できるかどうか、先生から話があることになってるから。
月曜日だぞ。
必ず電話するんだぞ。わかったな」
「わかった。
お父さんも、体に気をつけてね」
「お金は大丈夫か?」
「うん。ありがとう。
あのお金、まだほとんど使ってないから。
大丈夫だよ」
「そうか。
じゃあ、月曜日だからな」
「うん。わかった。
じゃあね」
電話が切れた。
緑色の受話器は、スマホよりも声がよく聞こえる気がした。
受話器を戻すと、ガシャンと音がした。
返却口に、使わなかった十円玉が戻ってきた。
取り出すと、小さく硬い音がした。
忘れかけていた感覚だった。
懐かしい。
母の声が、まだ耳に残っていた。
元気そうだった。
退院も、そう遠くないらしい。
うれしかった。
飛び上がりたいくらい、うれしかった。
なのに、涙が止まらなくなった。
私は中庭の花壇の縁に腰を下ろした。
フェイスタオルを顔に当て、しばらく泣いていた。
どれくらい、そうしていただろう。
気がつくと、小さな声が漏れていた。
「ありがとうございます。
ありがとうございます……」
自分でも、誰に言っているのかわからなかった。
父にだろうか。
それとも、神様にだろうか。
ふと顔を上げると、目の前に彼女が立っていた。
「大丈夫?
何があったの?」
すぐそこに、彼女の真剣な顔があった。
そうだった。
この中庭は、カフェのすぐ横にあるのだ。
私は、すっかり忘れていた。




