第244話 私には、誰もいなかった
娘は、タッパーに入った焼きそばを見つめていた。
オーナーは蓋を取り、小さなテーブルの上にそっと置いた。
娘はしばらく眺めていたが、箸ではなくフォークを手に取った。
焼きそばを二本ほどすくい、ゆっくりと口に運んだ。
しかし、すぐにティッシュを手に取り、口元に当てた。
そして、口に入れた焼きそばを、ティッシュにそっと吐き出した。
それを見たオーナーが言った。
「無理しちゃだめだよ。
いいから、いいから」
「ごめんなさい。
少しくらい食べられると思ったんですけど……」
娘は、焼きそばを包んだティッシュを小さく丸めた。
「謝らなくていいんだよ。
また食べたくなったら、いつでも作るから」
オーナーはそう言いながら、タッパーに蓋をして、そっとバッグにしまった。
「あったかい玄米茶はどう?
持ってきてるの」
「あっ、じゃあ、いただきます」
「このコップでいい?」
娘が頷くと、オーナーはステンレスボトルから玄米茶を注いだ。
娘はコップを両手で包むように持ち、ゆっくりと飲んだ。
「おいしい。
病院では、いつもほうじ茶だから……」
そう言って、少し笑った。
「オーナー。
母は、今日は病室まで来ないつもりなんでしょうか?」
「何も言ってなかったけど、あなた次第だと思うよ。
入れ替わり立ち替わりだと、疲れるかもしれないって思ってるんじゃないかな」
「そうですか……」
「どうする?
呼んでこようか?」
「今日は、会わなくていいです」
「そう……」
少し間があった。
「あの……
オーナーは、神を信じますか?」
「考えたこと、ないかなあ……」
「そうですか……」
「あなたは?」
「絶対、信じません」
娘の表情が険しくなった。
オーナーは、何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、オーナーが口を開いた。
「あなたに会ったら、ずっと謝りたいと思ってたの。
最後に会った日のこと。
カッとなって、ひどいことをしてしまった。
本当に、ごめんなさい」
娘は、すぐには答えなかった。
「もう、責めているわけじゃないんです……」
そして、オーナーの顔を見た。
「あのとき、カフェで頬を叩かれて……
私が何を思ったか、わかりますか?」
「……わからない。
何を思ったの?」
「私には、親友と呼べる人が一人もいない。
そう思ったんです。
それで、泣きながらカフェを飛び出したでしょう。
そのあと、泣き疲れて、しばらくバス停のベンチに座っていたんです。
そのとき、ふと思ったんです。
父にも、私と同じように、友達や親友と呼べる人がいなかったんじゃないかって……
そう思ったら、また涙が止まらなくなって……」
オーナーは、膝の上で両手を握りしめた。
「母には、オーナーのように本気で味方してくれる人がいる。
それが、うらやましかったんです。
だから、余計に父がかわいそうで……
父にも、そんな人がいてくれたらよかったのにって……」
娘は言葉を探すように、少し黙った。
「いろんな感情が、母に向かっていったんだと思います。
自分でも、歪んだ感情だったのかもしれないと思うんですけど……
どうしても、うまく抑えられなくて……」
そして、顔を上げた。
「この前、母がここに来て、神は愛の神だって言ったんです。
そのとき、なんだか、すごく悔しかったんです。
自分でも、どうしてそんなに悔しいのかわからないくらい……
でも、その悔しさがどこから来るのか、今もわからないんです」
オーナーは、ただ黙って聞いていた。
娘の胸の奥にしまわれていた思いが、次々と言葉になってあふれ出していた。
母親にも、誰にも言えなかったことなのかもしれない。
何か言葉をかけたい気持ちはあった。
けれど、今は何も言わずに聞いていたかった。
オーナーは、最後まで聞こうと思った。
そして、娘が自分に電話をかけてきた理由が、少しだけわかったような気がした。




