第239話 奇跡は現実の中に
彼女は涙を拭うと、話し始めた。
「私も、ちょっと話したいことがあるんです。
今の話とは、あまり関係ないかもしれないんですけど……」
「いいよ。
何でも聞くから」
看護師さんが答えた。
私もうなずいた。
「奇跡の話なんです」
奇跡?
何だろう。
私は彼女を見た。
「大学の頃、よく一緒に話すグループがあったんです。
その中に、いつも小さな聖書を持ち歩いている子がいたの。
ミッション系の大学だったけど、その頃の私は、神様なんて信じていなかった。
ある日、その子に、イエス・キリストが処女マリアから生まれたことや、モーセが手を伸ばすと海が分かれたという話を、冷やかしながら聞いたんです。
『本当に、そんなこと信じてるの?』
そう言ったら、その子は何も言わずに、ただうなずいたの。
言い返してこなかった。
だから、論争にもならなかった。
私はその時、ちゃんと説明もできないことを信じているなんて、ばかみたいだと思っていたの」
彼女は少し間を置いた。
「でも、今は違うんです。
聖書に書かれている奇跡が、以前ほど信じられないことには思えなくなったの。
どうしてだろうって考えたんだけど……。
たぶん、あの老人の太陽の話を聞いてからだと思う。
あれから、太陽を見る目が変わってしまったの」
私は黙って聞いていた。
「宇宙の仕組みなんて、私にはよく分からない。
でも、朝が来て、昼になって、夜になる。
それが毎日、当たり前のように繰り返されているでしょう。
太陽は、どうしてあんなに長い間、光り続けていられるんだろう。
もちろん、水素とか核融合とか、そういう仕組みがあるのは分かるの。
でもね。
私が不思議に思っているのは、そこじゃないの。
どうして、そんな仕組みを持った太陽が存在しているんだろうって。
その『なぜ』なの。
月は地球の周りを回っていて、地球は月と一緒に太陽の周りを回っている。
考え始めると、すごいことだなって思うの。
昔は、そんなことを考えもしなかった。
当たり前のことだと思っていたから」
彼女は窓の方を見た。
「でもね。
あの太陽も、神様が造られたんだと思うようになってから、何だか違って見えるの。
毎日、あんなに大きなものを見ていたんだって。
今まで何とも思わなかったことが、不思議で仕方なくなったの」
看護師さんは、カールを撫でながら聞いていた。
「そんな仕組みを持った世界が、こうして存在していること。
私には、それが奇跡のように思えるの」
彼女は私たちの顔を見た。
「そう考えるようになってから、聖書の奇跡に対する気持ちも変わったの。
海が分かれたなんて、絶対にありえない。
昔の私は、そう決めつけていた。
でも、太陽も月も、この世界も神様が造られたのなら……。
海を分けることが、神様にできないはずはない。
今は、そう思えるの」
私は、彼女の話に引き込まれていた。
「だからね。
太陽を見ると、私、安心するの。
神様が造られた世界の中に、今、自分がいるんだって思えるから。
もちろん、分からないことはいっぱいあるけど。
それでも、前みたいに、何でも『そんなことは無理だ』って決めつけなくなったの。
太陽を見るたびに、信仰が支えられているような気がするの」
彼女は、そこで話を終えた。
少し分かりにくいところもあった。
でも、何を伝えたいのかは、私にも分かった気がした。
彼女は、太陽が存在することを不思議に思っているだけではない。
その太陽を造られた神様のことを考えているのだ。
私たちは、毎日、奇跡のような世界を見ているのかもしれない。
太陽は、空想の中にあるわけではない。
現実に、そこにある。
彼女は、その現実を見つめながら、神様のことを話していた。
私は、そんな彼女の目に見入ってしまった。
看護師さんは、窓の外をじっと見ていた。
「今の話、沁みた……」
ひと言、そう言った。
私も同じ気持ちだった。
彼女の、今まで知らなかった一面を見たような気がした。
忘れられない話になりそうだ。
クリスチャンではない人が、この話を聞いたらどう思うのだろう。
きっと、私たちとは違う受け止め方をする人もいるだろう。
それでも、彼女が見ている太陽を、私も見てみたくなった。




