第236話 ノートとボールペン
「うん。
一緒に来て。
私も、その方が心強い」
看護師さんは、そう言ってくれた。
彼女も口を開いた。
「今日は、私も一緒に行っていいですか?
カフェは、今はまだ十一時までなので……」
「ありがとう。
あなたたちがいてくれて、本当に嬉しいよ」
看護師さんは、私たちの顔を見た。
「でも、勾留が延びたということだから、少しつらい話を聞くことになるかもしれないけど……」
「分かってます。
私も、ちゃんと聞いておきたいです」
彼女はそう答えると、すぐに振り返って、ももとカールの朝ごはんを用意し始めた。
私は、看護師さんの言った「つらい話」という言葉が気になっていた。
正直なところ、娘さんの夫に対して、今の私は同情する気持ちになれなかった。
それよりも、看護師さんのことが心配だった。
仕事に影響が出なければいいけれど。
娘さんの夫が逮捕されたことで、病院の人たちは看護師さんをどう見るのだろう。
もちろん、看護師さんが何か悪いことをしたわけではない。
そんなことは分かっている。
それでも、余計なことを言う人がいるかもしれない。
こんなにいろいろな人のために頑張っている看護師さんが、そんな思いをするのは嫌だった。
考えるだけで、やり切れなかった。
看護師さんは、周りの目なんて気にしないかもしれない。
でも、私には分からない。
誰が何を思うかなんて、分かるはずもない。
それなのに、勝手に心配して、悔しくなっている。
私が考えても仕方のないことなのに。
*
十一時を少し過ぎた頃、彼女がアルバイトから帰ってきた。
十二時過ぎにここを出れば、二時の約束には十分間に合うはずだった。
ももとカールには、今日は中庭ではなく、部屋で留守番をしてもらうことにした。
水を用意し、二匹が落ち着いているのを確かめた。
「少し早いけど、もう行こうか。
途中で、どこかでお昼を食べよう」
看護師さんが言った。
いつもより、少し落ち着かない様子だった。
*
元刑事さんのマンションに着いた。
玄関のドアの前で、また彼女がチャイムを押した。
この前も、そうだった。
奥様がドアを開け、笑顔で迎えてくださった。
挨拶を済ませて居間に入ると、ご主人も穏やかな顔で待っていた。
「どうぞ、どうぞ。
お掛けください」
テーブルの上には、ノートとボールペンが置かれていた。
何に使うのだろう。
私たちが何か書かなければいけないのだろうか。
そう思った。
でも、違った。
ご主人が、私たちに分かるように説明するために用意してくださっていたのだ。
「早速ですが……」
ご主人はノートを開いた。
そして、ボールペンで書き始めた。
『逮捕』
『検察官』
『勾留』
『勾留延長』
初めて聞く言葉もあった。
ご主人は、一つずつ説明してくださった。
「逮捕された後、必要があると判断されれば、裁判官の決定で勾留されます。
起訴される前の勾留は、原則として十日間です。
ただ、捜査を続ける必要がある場合などには、さらに延長されることがあります」
ご主人は、ノートに数字を書き加えた。
「ただし、勾留が延びたからといって、別の事件が見つかったとか、罪が重くなったとか、そういうことが決まったわけではありません」
看護師さんは、黙ってうなずいていた。
私も彼女も、聞き漏らさないようにしていた。
「今、何が調べられているのか。
これからどうなるのか。
そこは、私にも正確には分かりません」
ご主人は、ボールペンを置いた。
「私はもう現役ではありませんからね。
ただ、相談する先や、どんなことを確認しておけばいいかは、お伝えできます」
看護師さんが顔を上げた。
「警察に行って、お話を聞くことはできるんでしょうか」
「相談することはできますよ。
被害に遭われた方や、そのご家族を支援する窓口もあります。
ただ、捜査の内容を何でも教えてもらえるわけではありません」
ご主人は、ゆっくり続けた。
「娘さんは、もう成人されていますよね。
まずは娘さんご本人のお気持ちも大切にしながら、担当の方に、どんな相談ができるのか確認してみるのがいいと思います」
「そうですか……」
看護師さんが、小さな声で答えた。
「もしよろしければ、私も相談に付き添います。
ただ、私が一緒だから特別に情報を聞けるということではありません。
その点だけは、分かっておいてください」
「ありがとうございます」
看護師さんは、深く頭を下げた。
私は、その横顔を見ていた。
娘さんのこと。
娘さんの夫のこと。
これから、どうなっていくのだろう。
看護師さんは今、どんな気持ちで話を聞いているのだろう。
そう考えると、胸が苦しくなった。
彼女も、いつになく真剣な顔をしていた。
その時、奥様が温かいお茶を入れ直してくださった。
「どうぞ。
少し、お茶でも飲んでください」
看護師さんが、湯飲みに手を添えた。
ご主人が言った。
「これから先、分からないこともたくさん出てくると思います。
でも、一つずつ確認していけばいいんです。
私にできることがあれば、いつでも協力しますから」
私は、湯飲みから立ち上る湯気を見つめていた。
不安がなくなったわけではない。
何一つ、解決していない。
それでも、こうして一緒に考えてくれる人がいる。
私は、不安と安堵が入り混じったような気持ちで、温かいお茶を一口飲んだ。




