第231話 それ、本当?
午後七時二十分。
やっと部屋に着いた。
看護師さんは少し疲れているようだったが、顔は明るかった。
娘さんと何を話したのか、早く聞きたかった。
でも、私は何も尋ねなかった。
「お疲れ様でした」
彼女がそう言って、熱いお茶を入れてくれた。
「どうだった? バイトは」
看護師さんが尋ねた。
「楽しかったです。
オーナーさんから、看護師さんのことや病院のことを、いろいろ教えてもらいました」
「私のこと?
何だろう。
まあ、いいか」
看護師さんは、持ち帰った袋をテーブルに置いた。
「はい、うなぎ丼、買ってきたよ。
私たちはお昼に食べたから、今夜はコンビニ弁当」
「ありがとうございます!」
彼女は嬉しそうに袋を受け取った。
娘さんのことは、彼女もまだ何も聞かなかった。
看護師さんはお茶を一口飲んだ。
「ああ、おいしい」
湯飲みを置くと、ゆっくり話し始めた。
「今日ね、娘に会う前、何を話そうかずっと考えていたの。
でも、結局、何も決まらないまま病室に入ったのよ」
私たちは黙って聞いていた。
「そしたら娘がね、
『最近あったこと、何か話してよ』
って言ったの。
だから私、
『お母さんね、クリスチャンになったよ』
って話したの」
「えっ」
彼女が顔を上げた。
「そしたら娘が、
『その話、詳しく聞かせて』
って言うのよ。
私、聞き流されると思っていたから、びっくりしちゃって」
看護師さんは、湯飲みに目を落とした。
「娘がもう一度、
『キリスト教の神様を信じたら、どうなるの?
詳しく聞かせて』
って聞いてきたの」
「それで、何て言ったんですか?」
彼女が尋ねた。
「うん。
もっと上手に話せたらよかったんだけどね。
ひと言だけ、
『神は愛だよ』
って言ったの」
看護師さんは、そこで言葉を止めた。
「そしたら娘が、ちょっと驚いた顔をして、
『愛……』
って。
それから窓の方を向いて、しばらく空を見ていたの」
私も、娘さんが窓の外を見つめている姿を想像した。
「それでね、娘が振り返って、こう言ったの。
『私、ばちが当たったんだと思ってた。
ずっと、そう思ってた。
神様が怒って、私を苦しめているんだって……』」
看護師さんの声が震えた。
「そんなことないよって、言ったの。
あなたが受けたことは、罰なんかじゃないって。
でもね……」
看護師さんは、しばらく黙っていた。
「痩せ細った娘の体を見たら、涙が出てきてしまって。
泣いちゃいけないと思っていたのに、止まらなくなっちゃった。
それで、いったん病室を出たの。
廊下の椅子に座って、落ち着こうとしていたら……」
看護師さんは、もう一度お茶を飲んだ。
「娘が、ゆっくり廊下に出てきたの。
それで、私の隣に座って、
『キリスト教の神様って愛なの?
それ、本当?』
って聞いたのよ」
私は、思わず息を止めた。
「私、頷くことしかできなかった。
声が出なかったの」
看護師さんは、両手で湯飲みを包んだ。
「でも、その時ね。
娘が、私の顔をまっすぐ見ていたの。
ほんの一瞬だったけど、表情が変わったように見えた。
何かが、あの子の心に届いたのかもしれない。
そう思ったの」
看護師さんの目に、涙が浮かんでいた。
「もっと話したかったんだけど、娘の体のこともあるからね。
あまり食べられない状態が続いていて、立ちくらみもあるし、ひどく寒がることもあるの。
病院で診てもらっているけれど、まだ心配な状態なのよ」
看護師さんは、少しうつむいた。
「今日は、いろんな話ができて嬉しかった。
でも、娘の体のことを考えると、手放しでは喜べないの」
誰も口を挟まなかった。
「それでもね……」
看護師さんは顔を上げた。
「『神は愛だよ』って言った時の、あの子の顔が忘れられないの。
ほんの一瞬だったけど。
私、嬉しかった。
本当に、嬉しかったの」
看護師さんは、指先で涙を拭った。
しばらくして、
「さっ、ご飯食べようか。
そのあと、お風呂屋さんに行きたいの」
と言った。
「行く、行く!
私も行きたい!」
彼女がすぐに答えた。
二人の声を聞きながら、私は考えていた。
娘さんは、自分にばちが当たったと思っていた。
神様が怒って、自分を苦しめているのだと。
ずっと、そんなふうに思っていたのだろうか。
私は、まだ会ったことのない娘さんのことを考えた。
「神は愛だよ」
看護師さんの言葉が、何度も頭の中に浮かんできた。
私の中で、
何かが動き始めていた。




