第230話 神様には遠慮しない
午後三時四十分。
彼女はもうアルバイトを終えて、部屋で待っているはずだ。
ロビーの近くに公衆電話があったので、電話してみることにした。
途中経過だけでも伝えておこう。
「もしもし、私。
看護師さん、まだ娘さんと話してるみたい。
ちょっと遅くなるかもしれない」
「そう。まだ話してるんだ。
あなたは?
何やってるの?」
「ロビーで待ってるだけ。
今までのこと、いろいろ考えて、頭の中を整理してた。
それより、アルバイト初日、どうだった?」
「うん。私、このバイト好きかもしれない。
オーナーさんがね、看護師さんのこととか、病院のこととか、いろいろ教えてくれるの」
「そうなんだ。
あっ、今日のお昼、うなぎ丼食べたの。
あなたの分も持ち帰りで頼んであるから」
「えっ、うなぎ丼!
ありがとう。
楽しみにしてる!」
「私じゃないよ。
看護師さんのおごりだから」
「あっ、そうなの」
「帰る前に、また電話するね」
「うん。
あっ、それから……」
彼女の声が、少し変わった。
「帰ってきてから、ゆっくり話すけどね。
看護師さんの娘さん、大学生の時、このカフェでバイトしてたんだって」
「えっ!
娘さんが?」
「そうなの。
私もびっくりした。
オーナーさんから、いろいろ聞かせてもらったの。
帰ってきたら話すね」
「分かった。
じゃあ、またあとで」
「うん、じゃあね」
受話器を置いた。
*
なんだか急に、
娘さんとの距離が縮まったような気がした。
もちろん、私はまだ娘さんに会ったこともない。
でも、彼女が今日から働き始めたカフェで、以前、娘さんも働いていた。
そのことが、なんだか嬉しかった。
私はソファーに戻った。
そして、ふと神様に祈りたくなった。
少しためらった。
でも、正直に祈ってみようと思った。
目を閉じた。
「神様、優しくて、思いやりがあり、私が魅力を感じる男性と巡り合わせてください」
自分でも驚くほど、はっきりした願いだった。
娘さんのことを考えると、
こんなことを祈ってもいいのだろうかと、少し後ろめたい気持ちになった。
でも、
これが私の本音だった。
私は、優しい人と出会いたい。
安心して、一緒にいられる人がいい。
最初は優しかった人が、いつか別人のように変わってしまう。
そんなことがあるのだと思うと、怖かった。
看護師さんの娘さんの話を聞いてから、
その怖さが、私の心の奥に残っていた。
でも、
だからといって、誰かを好きになることまで怖がっていたくない。
私は、優しくて、思いやりのある人と出会いたい。
そして、
私もその人を大切にしたい。
これは、誰かを傷つける願いではない。
後ろめたく思わなくてもいいはずだ。
そうだ。
このことは、何度でも神様に話そう。
神様を信じていなかった頃も、
きっと、同じようなことを願っていた。
でも、今になって気がついた。
祈ってみると、
自分が本当は何を願っているのか、
はっきりしてくることがある。
ノートに思ったことをそのまま書くのと、少し似ている。
目を閉じて、
神様に話しかけていると、
自分でも気づいていなかった気持ちが見えてくる。
ああ、
私は、こんなことを願っていたんだ。
神様には、
格好をつけなくてもいい。
きれいな言葉を並べなくてもいい。
自分の本当の気持ちを、そのまま話せばいい。
そう思うと、
少しだけ、希望が見えてくるようだった。
*
「お待たせ」
目を開けると、看護師さんが私の顔を覗き込んでいた。
「何か嬉しいことでもあったの?」
「えっ?
別に、何も……」
「そうかなあ」
看護師さんは、私の隣に立ったまま言った。
「私はね、嬉しいことがあったよ」
「えっ!
何ですか?
娘さん、何て言ったんですか?」
「それはね、帰ってから、二人の前でちゃんと話したいの。
いいこともあったけど、
そうじゃないこともあったから……」
看護師さんは、それ以上話さなかった。
でも、
その顔は明るかった。
「ねえ、今日も三人で銭湯に行こうか?」
看護師さんが、晴れやかな顔で言った。
私も、さっきの祈りを神様が聞いてくださったような気がして、
少し浮かれていた。
「風呂上がりのビール、ビール!」
看護師さんはそう言って、
ソファーにドカンと腰を下ろした。
私は思わず笑ってしまった。
今日、
一緒についてきてよかった。
心から、そう思った。




