第224話 それだけで十分
あの老人の優しい笑顔を、
私は、
きっと忘れないだろう。
あんな笑顔を、
私はいつか、
誰かに向けることができるだろうか。
人生の最後の季節に、
あんなふうに穏やかに笑って、
天のふるさとへ帰っていくことができたなら……。
以前、
看護師さんは言っていた。
あの方は、
幸せだったと思う、と。
今の私にも、
少しだけ、
その意味が分かるような気がする。
老人の中にあった怒りが、
最後にどこまで消えていたのか。
本当のところは、
私には分からない。
でも、
あの笑顔を思い出すと、
老人は最後に、
長い間抱えてきたものを、
神様に委ねることができたのではないか。
そんなふうに思える。
もし神様が、
ただ宇宙を動かしている法則のような、
人の心とは関係のない存在だったなら、
老人のあの変化は、
私には理解できない。
でも老人は、
神は愛だと書いていた。
私にとって、
あのノートに書かれていたことは、
それまで知らなかった世界のことだった。
考えたことさえなかった。
でも今、
私も神様を信じている。
神様は愛だと、
信じている。
私は、
老人のハーモニカを初めて聴いた日のことを思い出した。
どんな言葉よりも、
あの音色は、
私の心を震わせた。
適応障害と診断され、
会社を辞めることを決めたばかりの頃だった。
あの時の私は、
これから、
どうなってしまうのだろう。
そんな不安に、
押しつぶされそうになっていた。
その時、
私は老人のハーモニカを聴いた。
恐れも、
不安も、
私の体と一緒に、
空へ溶けていくようだった。
何一つ、
問題は解決していなかった。
それなのに、
信じられないほど、
心が軽くなった。
今、
その一つ一つを思い出しながら、
このノートに書いている。
そして、
書きながら思う。
もうだめだ。
もう、
どうすることもできない。
そんなふうに思ってしまう時が、
これからもあるかもしれない。
でも、
そこで、
すべてが終わりだと決めなくてもいいのかもしれない。
よく考えてみれば、
私があの老人に出会った時、
私は神様を信じていたわけではなかった。
神様のことなんて、
ほとんど考えたこともなかった。
祈ったことも、
一度もなかった。
それでも私は、
あの老人と出会った。
そして、
あの海岸で、
不思議な出来事を経験した。
私は、
この耳で、
はっきりと聞いた。
二度も聞いた。
忘れられないことば。
『休ませてあげます』
あとになって、
聖書の中に、
同じ言葉があることを知った。
あの時の私に、
必要だった言葉だった。
心も、
体も、
もう限界だった。
聞いた時には、
ただ、
不思議で仕方がなかった。
でも今は、
あの言葉を聞いたことを、
心から感謝している。
私は今、
このロビーで、
一人の時間をゆっくり味わっている。
思っていることを、
誰にも遠慮せず、
心のままに書いている。
私は、
私のままでいる。
誰かの顔色を見ながら、
自分を決めるのではなく、
自分の心に、
素直に生きていく。
そして、
心配になった時には、
神様に話すことができる。
祈ることができる。
こんな生き方があることを、
以前の私は、
まったく知らなかった。
私は、
ペンを置いた。
そして、
目を閉じた。
まぶたを通して、
太陽の光が、
やわらかく入ってきた。
目を閉じたまま、
しばらく、
そのオレンジ色の光を見ていた。
何かが解決したわけではない。
看護師さんも、
まだ戻ってきていない。
それでも今、
私は、
ここにいる。
それだけで、
なぜか十分なような気がした。
私は、
言葉にできない静かな満足感の中に、
一人、
しばらく座っていた。




