第223話 あの美しい笑顔
このロビーに座って、
もう三時間が経っていた。
看護師さんは、
まだ戻ってこない。
私は、
いったんノートを閉じた。
看護師さんと娘さんの関係が、
少しでも良い方へ進むように、
祈りたくなった。
祈らなければ、
と思ったわけではない。
祈りたいという気持ちが、
自然に出てきた。
娘さんは、
前に看護師さんと会った時、
小さな声で、
「ごめん」
と言ったという。
今日は、
あの二人が、
もう少しだけ近づけますように。
そう願いながら、
私は目を閉じた。
自分のために、
祈ることもある。
でも、
誰かのために祈っている時の方が、
なぜか、
心が静かになる。
自分のことを考えている時より、
素直な自分になれるような気がする。
気のせいなのかもしれない。
それでも、
今の私は、
そう感じていた。
時計を見ると、
一時を回っていた。
看護師さんも、
たぶん、
まだ何も食べていないだろう。
私も、
まだ空腹を強く感じてはいなかった。
でも、
何か口にした方がいいことは分かっている。
もう少しだけ書いたら、
何か食べよう。
そう決めて、
私はもう一度、
ノートを開いた。
もう少し、
老人について書いてみたい。
*
あの、
優しくて、
穏やかな老人が、
かつて神に激しい怒りをぶつけていた。
老人のノートには、
そのことも隠さず書かれていた。
なぜ、
両親が死ななければならなかったのか。
なぜ、
八重子が、
あれほど苦しみ抜いて、
死ななければならなかったのか。
なぜ、
私は、
生まれつき耳が聞こえなかったのか。
老人は、
神に答えを求めていた。
そして、
私の心に突き刺さった言葉があった。
なぜ、
この人生で、
私を愛してくれる女性が、
一人も現れなかったのか。
答えてみろ。
答えてみろ。
老人は、
そんな激しい言葉まで、
ノートに残していた。
自分を、
きれいに見せようとはしていなかった。
神を憎んだことも、
恨んだことも、
寂しかったことも、
そのまま書いていた。
読んでいて、
胸が痛くなった。
そして、
これはノートに書かれていたことではない。
老人が亡くなる前、
看護師さんから聞いたことだった。
老人は、
ベッドの上で、
体を海老のように丸めながら、
何度も、
「赦してください。
赦してください」
と言っていたという。
あの時の私は、
その言葉の意味が、
よく分からなかった。
でも、
今は少し違って聞こえる。
老人は、
神様に向かって、
そう言っていたのではないだろうか。
神様に背を向けてきたこと。
神様を憎み、
恨みながら生きてきたこと。
そのすべてを抱えながら、
人生の最後に、
「赦してください」
と祈っていたのではないだろうか。
本当のところは、
老人にしか分からない。
でも、
今の私には、
そう思えた。
私は、
あのノートの中に、
老人の真実を見たような気がしていた。
もし、
私の父や母に、
八重子さんのようなことが起きたら、
私は耐えられるだろうか。
それでも、
神様を信じることができるだろうか。
まったく、
自信がない。
老人のように、
最後に自分から、
神様に赦しを求めることができるだろうか。
私には、
分からない。
そんなことを考えていると、
聖書のある箇所を思い出した。
生まれつき、
目の見えない人がいた。
弟子たちは、
イエスに尋ねた。
この人が目の見えない状態で生まれたのは、
この人が罪を犯したからですか。
それとも、
両親が罪を犯したからですか。
イエスは、
どちらでもないと答えた。
そして、
この人の上に、
神のわざが現れるためだと語った。
私は、
老人のことを考えた。
老人が経験した苦しみに、
簡単な答えをつけることなんて、
私にはできない。
原爆で、
両親と妹を失ったこと。
耳が聞こえなかったこと。
長い間、
孤独だったこと。
その一つ一つに、
「こういう意味があったんだ」
なんて、
私には言えない。
でも、
一つだけ、
今の私にも分かることがある。
あれほど神を憎み、
怒り続けていた老人が、
最後には、
神様を愛の神として信じるようになった。
そして、
あの海岸で、
私に、
あんなに優しい笑顔を見せてくれた。
私は、
それを思うと、
あの聖書の言葉と、
老人の人生が、
どこかで重なって見えた。
神のわざが現れる。
それがどういうことなのか、
私はまだ、
全部分かっているわけではない。
それでも、
怒りの中にいた老人が、
あれほど穏やかな人になったこと。
あの笑顔を、
私に向けてくれたこと。
そのことの中に、
私は、
神様の愛を見ているような気がした。
私は、
しばらくペンを止めて、
老人の笑顔を思い出していた。




