第219話 問題の中を歩く
彼女にも、
看護師さんにも、
そして私にも、
それぞれ抱えているものがある。
きっと、
私たちだけではない。
多くの人が、
それぞれの悩みの中で、
毎日を生きているのだと思う。
私は、
ぼんやりそんなことを考えていた。
その時、
昔読んだ本の中にあった話を、
ふと思い出した。
ある牧師が、
こんなことを言ったという。
まったく問題を抱えていない人たちがいる。
そんな場所がある。
そこでは、
すべての問題から解放されている。
すると、
ある男が言った。
「それなら、
私が行きたいのはそこだ。
もう問題に頭を抱えるのは、
まっぴらだ。
問題のないところへ行きたい」
牧師は答えた。
「そこは、
共同墓地です」
そこに眠る人たちは、
もう、
この世の問題やわずらわしさに、
悩まされることはない。
そんな話だった。
どうして今、
この話を思い出したのだろう。
私は、
ノートを見つめた。
たぶん、
生きている限り、
人は何かしらの問題を抱える。
それが、
生きているということなのかもしれない。
もちろん、
問題があることがいいとは思わない。
苦しいことは、
できればない方がいい。
でも、
問題が全部なくなれば、
その時やっと幸せになれる。
そんなふうに考えてしまうと、
いつまでたっても、
心は休まらないのかもしれない。
一つ解決しても、
また次の問題がやってくる。
生きている限り、
たぶん、
それは終わらない。
でも、
私は今、
もう一つの生き方があることを知っている。
問題を、
全部自分一人で抱え込まない。
心配になった時、
神様に話す。
そして、
委ねてみる。
私は、
本気で、
そういう生き方をしてみたいと思っている。
問題がなくなることではなく、
問題の中でも、
神様に委ねながら歩いていくこと。
これが、
今の私が選びたい生き方なのだ。
私は、
書いた文字を、
しばらく眺めた。
やっぱり、
文字にすると、
頭の中が整理されていく。
自分でも、
少しずつ、
何を考えているのか分かってくる。
私は、
もう一度ペンを持った。
*
第六章
看護師さんについて。
私は、
この看護師さんとの出会いによって、
命を救われたと思っている。
自分でも、
このあと何をしてしまうのか分からない。
そんな怖さを、
私は一度、
本当に味わった。
適応障害の症状が、
一番ひどかった頃。
もう、
消えてしまいたい。
そんなところまで、
追い詰められたことがあった。
私と看護師さんの出会いを、
たどっていくと、
やっぱり、
あの老人に行き着く。
私は、
混乱した心を休めたくて、
あの海岸へ行った。
そこで、
一人でハーモニカを吹いている老人に出会った。
老人が吹いていたのは、
日本の唱歌だった。
懐かしい曲ばかりだった。
その音色を聴いていると、
不思議なくらい、
心が静かになった。
不安も、
恐れも、
少しずつ遠ざかっていった。
そして、
私は、
あの言葉を聞いた。
『休ませてあげます』
老人の声ではなかった。
周りを見ても、
誰もいなかった。
それでも、
私は、
はっきり聞いた。
しかも、
二回。
あとで、
そのことを老人に話した。
すると、
老人も、
あの海岸で、
同じ言葉を聞いたことがあると言った。
『休ませてあげます』
同じ言葉だった。
それから私は、
老人と何度か、
あの海岸で会うようになった。
年齢は、
ずいぶん離れていた。
それでも、
いつの間にか、
世代を越えた友人のような存在になっていた。
ところが、
ある時から、
老人は突然、
海岸に姿を見せなくなった。
あとになって、
心臓の具合が悪くなり、
救急車で病院へ運ばれていたことを知った。
そのまま、
入院することになった。
そして、
その老人を担当していたのが、
あの看護師さんだった。
私は、
そこで一度、
ペンを止めた。
老人がいなければ、
看護師さんとも、
出会っていなかったのかもしれない。
そして老人は、
亡くなる前、
長い手紙を残してくれた。
あの海岸で、
自分も、
『休ませてあげます』
という言葉を聞いたこと。
そして、
あとになって、
その言葉と同じ言葉が、
聖書の中に本当に書かれていることを知ったこと。
老人は、
自分が経験したことを、
最後まで書き残してくれた。
もしかしたら、
また私が、
ハーモニカを聴きに、
あの海岸へ来ると思っていたのかもしれない。
亡くなる前に、
そのノートを私に渡してほしいと、
看護師さんに頼んでくれていた。
それが、
あの老人のノートだった。
そして、
そのノートを受け取ったことがきっかけで、
私は、
看護師さんと深く関わるようになった。
ノートには、
老人が歩いてきた人生が、
そのまま残されていた。
家族を失ったこと。
怒り続けたこと。
神様まで憎んだこと。
そして、
長い時間をかけて、
自分の考えが変わっていったこと。
あのノートが、
私のところへ届いた。
そして今は、
看護師さんも、
そのコピーを大切にして、
何度も読んでいる。
私は、
書いた文字を見つめた。
老人。
あの海岸。
『休ませてあげます』
老人のノート。
そして、
看護師さん。
一つずつは、
その時には、
何のつながりもないように見えていた。
でも、
今こうして振り返ると、
また一つ、
点と点が、
つながったような気がした。




