第218話 彼女も私も
少し、
頭を休めよう。
私はペンを置いて、
冷たいアイスティーを飲んだ。
しばらく何も考えずにいると、
また、
書きたいことが自然に浮かんできた。
今の自分が、
思っていることを書けばいい。
このノートは、
誰かに読ませるためのものではない。
私の頭の中を、
整理するためのノートだ。
思ったことを、
そのまま書こう。
次は、
彼女のことを書いてみようと思った。
*
第五章
彼女のことを書こうとして、
私は、
意外なほど彼女のことを知らないことに気がついた。
私は、
彼女のプライバシーに関わることを、
ほとんど聞いてこなかった。
彼女も同じだった。
私が自分から話さないことを、
無理に聞いてきたことはない。
そういう関係のまま、
今日まで来ている。
私が知っているのは、
彼女が家族との関係の中で、
暴力を受けていたこと。
そして、
看護師さんに助けてもらったこと。
それくらいだった。
看護師さんと彼女が、
最初にどうやって知り合ったのか。
詳しいことは、
今でも知らない。
ただ、
彼女が、
自分の身を守らなければならないほど、
追い詰められていたことは知っている。
そして、
看護師さんたちのいる病院に、
入院していた。
以前、
彼女と看護師さんと一緒に、
銭湯へ行ったことがある。
その時、
彼女の体に、
いくつもの傷やあざが残っているのを見た。
私は、
何も聞けなかった。
聞かない方がいいと思った。
ただ、
彼女がどれほど苦しい時間を過ごしてきたのか、
ほんの少しだけ、
見えたような気がした。
彼女が入院していたのは、
治療だけではなく、
安全な場所で過ごすためでもあったのかもしれない。
一度、
彼女を訪ねてきた女性がいた。
その時も、
院長先生と看護師さんが対応していた。
私は、
その人が誰だったのかも、
詳しくは知らない。
聞かなかった。
彼女が話したくなった時に、
話してくれればいいと思っていた。
私は、
そこで一度、
ペンを止めた。
そして、
自分のことを思い出した。
私が適応障害で、
自分を見失い、
どうしたらいいのか分からなくなった時。
看護師さんは、
私のところまで来てくれた。
「今日は一緒にいるから」
そう言ってくれた。
あの時の私は、
自分でも、
このあと何をしてしまうのか分からないほど、
頭の中が混乱していた。
だから今でも、
私は看護師さんを、
命の恩人だと思っている。
そんな時だった。
病院から、
連絡が入った。
夕方になると、
子どもたちが、
屋上でももとカールと触れ合える時間が設けられていた。
その時間に、
カールが患者さんを噛んだという。
看護師さんは、
急いで病院へ戻ることになった。
私も、
一緒に連れて行ってくれた。
あの時の私は、
一人にしておくのが心配な状態だったのだと思う。
病院へ着いて、
私たちは、
カールが噛んだ理由を知った。
彼女が、
屋上から飛び降りようとしていたのだ。
柵を越えようとした彼女の異変に、
ももが反応した。
そして、
カールも動いた。
カールは、
彼女の左足のくるぶしに噛みついた。
彼女は、
そこで止まった。
足には、
傷が残った。
でも、
彼女は生きていた。
私は、
その時のことを、
今でも忘れられない。
彼女の家族に、
何があったのか。
今でも、
私は全部を知らない。
彼女が話さない限り、
私から聞くつもりもない。
それでも、
私たちの距離は、
いつの間にか近くなっていた。
彼女は、
私にとって、
初めて親友と呼べる人になった。
何もかも知っているから、
親友なのではない。
知らないことは、
今でもたくさんある。
お互い、
聞かないこともある。
それでも、
一緒にいると、
分かることがある。
それでいいのだと思う。
彼女は以前、
左足に残った傷跡を見るたび、
神様の愛を思うと言っていた。
あの傷が残ったこと自体を、
喜んでいるわけではない。
でも、
あの時、
生きる方へ引き戻されたことを、
そう受け止めているのだと思う。
やがて、
彼女は神様を信じるようになった。
そして、
そのあと、
私も神様を信じるようになった。
彼女が、
どんな家庭の中で、
どれほど苦しんできたのか。
私は、
全部を知っているわけではない。
私とは、
抱えていたものも違う。
苦しみ方も、
きっと違った。
でも、
一つだけ、
重なっていたことがある。
彼女も私も、
生きることを、
あきらめそうなところまで、
行ってしまったことがあった。
私は、
最後の一行を書いて、
ペンを止めた。
彼女が今、
生きている。
私も、
生きている。
そのことが、
急に、
とても大きなことのように思えた。




