第216話 私のためのノート
思えば、
会社に勤めていた頃、
私は毎日、
何を考えていたのだろう。
どうして、
あんなに苦しかったのだろう。
人の言葉を恐れて、
人の表情を気にして、
何度も同じことを考えていた。
あれは、
なんだったのだろう。
今とは、
まったく違う生き方をしていたような気がする。
あの頃、
私は神様を信じていなかった。
では、
何を信じていたのだろう。
考えてみた。
でも、
思い出せなかった。
たぶん、
何も信じていなかったのだと思う。
自分自身のことさえ、
信じられなくなっていた。
それで私は、
どこへ行こうとしていたのだろう。
他人の中に、
やさしさを見つける余裕もなかった。
毎日、
敵に囲まれているような気がしていた。
味方だと思える人も、
あの頃の私には、
見えなくなっていた。
心が悲鳴を上げても、
おかしくなかったのかもしれない。
私は、
ロビーのソファーに体を預けた。
次から次へと、
昔の場面が浮かんでくる。
今日は、
ちょうどいい。
時間は、
たっぷりある。
私は、
膝の上に置いていた老人のノートを見た。
そうだ。
あの老人みたいに、
文字にしてみよう。
誰かに見せるためじゃない。
私が、
私自身の歩いてきた道を、
振り返るために。
その時々に、
何を思っていたのか。
何が苦しかったのか。
何が嬉しかったのか。
そのまま、
書いてみよう。
私は立ち上がり、
ロビーの売店へ行った。
ノートと、
ボールペンを一つ買った。
ソファーへ戻る。
買ったばかりのノートを、
老人のノートの横に置いた。
ほとんど、
同じくらいの大きさだった。
私は、
老人のノートをバッグにしまい、
新しいノートを開いた。
誰かに見せるためのノートではない。
私のための、
私のノートだ。
上手に書かなくてもいい。
文章を整えなくてもいい。
思ったことを、
思ったまま書けばいい。
私のままの私を、
書けばいい。
最初のページを開いた。
しばらく、
真っ白な紙を見ていた。
そして、
ページの真ん中に書いた。
『私は生まれ変わった』
書いたあとで、
自分でも少し驚いた。
大袈裟かな。
そう思った。
でも、
消さなかった。
今日は、
思ったことをそのまま書くと決めたのだ。
私は、
ペンを握り直した。
次のページを開く。
今度は、
止まらずに書き始めた。
*
『私のこと』
第一章
私は、
あの日、
あの海岸の防波堤にいた。
バッグの中には、
タブレットとスマホが入っていた。
私は、
防波堤の先まで行って、
泣きながら、
タブレットとスマホを、
ハンマーで叩き壊した。
あの時、
私の心は、
もう耐えられなかった。
何かを、
自分から切り離したかった。
このままでは、
自分の心を守れないような気がしていた。
突発的な行動だった。
今振り返っても、
あれが正しかったのかどうかは、
分からない。
ただ、
あの時の私は、
そこまで追い詰められていたのだと思う。
壊れたタブレットとスマホを、
私は丁寧に、
白い綿の袋へ入れた。
あの時のことを思い出すと、
不思議なくらい、
景色まで一緒によみがえってくる。
防波堤を吹いていた風。
潮の香り。
そして、
夕陽。
あの夕陽は、
本当にきれいだった。
私は、
少しだけ、
心が軽くなった。
第二章
私は、
適応障害の中で、
もがいていた。
食べることも、
苦しくなった。
そんな私を、
あの海岸は、
静かに迎えてくれた。
夕陽。
風。
潮の香り。
それを感じたくて、
私は何度も、
あの海岸へ行った。
そして、
そこで、
あの不思議な老人に出会った。
一人で、
日本の歌を、
ハーモニカで吹いている老人。
その音を聴いた時、
不思議なことが起きた。
ただ、
音楽を聴いて楽しくなった、
というのとは違った。
うまく言えない。
心が、
空へ溶けていくようだった。
苦しかったものが、
静かにほどけていくようだった。
私は、
不思議なくらい、
幸せな気持ちに包まれた。
そして、
それだけではなかった。
私は、
あの日、
言葉を聞いた。
『休ませてあげます』
はっきり、
聞いた。
しかも、
二回。
老人の声ではなかった。
老人とは、
話ができるような距離にはいなかった。
ずっと離れていた。
まわりを見ても、
誰もいなかった。
それでも私は、
確かに聞いた。
『休ませてあげます』
二回も、
この耳で聞いた。
*
私は、
そこでペンを止めた。
書いた文字を、
しばらく見つめた。
やっぱり、
不思議だった。
何年たっても、
私はきっと、
あの言葉を忘れないと思う。




