第215 神様、ありがとう
看護師さんと私は、
娘さんが入院している病院まで来た。
私はロビーで待つことになり、
看護師さんは、
まず担当の先生に会いに行く。
別れる前に、
私は念を押した。
「私を待たせてるなんて、
思わないでくださいね」
「うん」
「お昼ご飯も、
適当に食べますから」
私は続けた。
「時間のことは気にしないで、
娘さんと、
ゆっくりお話ししてください」
看護師さんは、
私の顔を見た。
「ありがとう」
そして、
バッグの中から、
あの老人のノートのコピーを取り出した。
「これ、
持ってる?」
「え?」
「私、
毎日のように読んでるの」
そう言って、
私に差し出した。
「待ってる間、
よかったら読んで」
私は受け取った。
「ありがとう」
「じゃ、
行ってくるね」
「はい。
行ってらっしゃい」
看護師さんは、
廊下の向こうへ歩いていった。
私は自動販売機で、
アイスティーを買った。
ロビーの、
ゆったりしたソファーに座る。
老人のノートを、
膝の上で開いた。
ページを見ていると、
いろいろなことが、
次々によみがえってきた。
私が今、
こうしてここにいること。
神様を信じていること。
祈るようになったこと。
その始まりをたどっていくと、
やっぱり、
あの海岸に行き着く。
老人に、
初めて会った日。
そして、
あの言葉。
『休ませてあげます』
今でも、
はっきり覚えている。
今日は、
時間がたっぷりある。
久しぶりに、
ゆっくり振り返ってみようと思った。
ノートを閉じ、
膝の上に置いた。
その上に両手を重ねて、
目を閉じる。
初めて老人に会った日のことを、
思い出した。
そう。
あの時だった。
私は、
『休ませてあげます』
という声を聞いた。
そして、
あの老人も、
同じ言葉を聞いていた。
なぜ、
私にあの声が聞こえたのか。
今でも分からない。
看護師さんも、
彼女も、
今は同じ神様を信じている。
でも、
私と同じ体験をしたわけではない。
そう考えると、
今でも不思議だった。
時間がたっても、
あの言葉だけは、
薄れていかない。
あの時、
この耳で聞いた声が、
今でも記憶の中に残っている。
私は、
もう一度ノートを開いた。
老人の言葉を読みながら、
思った。
このノートは、
聖書ではない。
もちろん、
神様の言葉そのものでもない。
一人の老人が、
自分の人生を書き残したものだ。
それでも、
私には時々、
神様が、
あの老人を通して、
私に届けてくださった手紙のように思える。
老人のハーモニカも、
忘れられない。
『ふるさと』
『春が来た』
『春の小川』
『さっちゃん』
『犬のおまわりさん』
老人は、
日本でよく知られている歌の中にも、
クリスチャンが作曲したものがあることを、
教えてくれた。
それまでの私にとって、
キリスト教は、
どこか遠いものだった。
でも、
子どもの頃から知っていた歌と、
思いがけないところでつながった。
それだけで、
少し身近に感じられた。
あの老人と出会わなければ、
私は、
そんなことも知らないままだったかもしれない。
海岸で、
あの老人に会えたこと。
今でも、
ただの偶然だったとは、
私には思えない。
ほんの少し、
時間がずれていたら、
会えなかったかもしれない。
老人が歩いてきた道も、
あの声のことも、
ハーモニカのことも、
知らないままだったかもしれない。
だから私は、
神様が、
あの老人に会わせてくださったのだと、
信じている。
看護師さんとの出会いも。
彼女との出会いも。
私にとって、
大切な宝物になっていた。
それも私は、
神様が与えてくださった出会いなのだと、
思っている。
以前の私は、
神様に委ねて生きる、
という生き方があることさえ知らなかった。
祈ることも、
知らなかった。
心配になれば、
自分で全部抱えるしかないと思っていた。
苦しくなれば、
自分で何とかするしかないと思っていた。
でも、
今は違う。
全部うまくできるわけではない。
今でも、
すぐ心配する。
先のことを考えて、
勝手に不安になる。
それでも、
心配した時、
神様に話してもいいことを知った。
委ねてもいいことを知った。
老人との出会いを境に、
私は、
それまでとは違う道を歩き始めたのかもしれない。
時間は、
まだたっぷりある。
私はアイスティーを飲みながら、
心の中を、
自由に歩くように、
昔のことを思い出していた。
その時、
ふと、
母の声が聞きたくなった。
今日は、
自分のしたいことをしていい時間がある。
公衆電話も、
すぐそこに見える。
父のスマホに、
電話をかける。
数回、
呼び出し音が鳴った。
「もしもし」
父の声だった。
「私です」
「ああ、
やっと電話してくれたな」
声が明るかった。
「お父さん、
今、家?」
「ああ。
今は家にいる」
そして、
すぐに続けた。
「お母さん、
だいぶ元気になったぞ」
「ほんと?」
「ああ。
メニエールが完全に治ったわけじゃないけど、
病院でゆっくりさせてもらってるから、
今は心配しなくていい」
私は、
「そう……」
「笑顔も出てきたしな」
父が続けた。
「ご飯も、
『おいしい、おいしい』って食べてる」
「そう……」
胸の奥が、
あたたかくなった。
「よかった」
それしか、
すぐには出てこなかった。
「ほんとうによかった。
嬉しいよ」
「今、
父さんは家にいるんだけどな」
「うん」
「夕方には病院に行くから、
その頃、
もう一回電話してくれないか?」
「お母さんと?」
「そう」
父の声が、
また明るくなった。
「お母さん、
おまえと話したがってるぞ」
「ほんと?」
「ああ。
元気な声を聞いたら、
たぶんびっくりするぞ」
私は、
思わず笑った。
父が続けた。
「それとな」
「なに?」
「お母さん、
おまえの適応障害のこと、
毎日のように勉強してるぞ」
「え?」
「たぶん今、
おまえより詳しいぞ」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
私は、
目を閉じた。
「じゃあ、
今日また電話する」
「ああ。
夕方でも夜でもいい」
「うん」
「お母さんにも、
電話が来るって言っとくからな」
「ありがとう」
電話を切った。
それでも、
私はしばらく、
受話器を手にしたまま動けなかった。
母が、
笑っている。
ご飯を、
おいしいと言って食べている。
そして、
私のことを知ろうとしてくれている。
「神様、
ありがとう」
今度は、
自然に言えた。
心から、
そう思った。




