第212話 独り言とはちがう
元刑事さんから聞いたという話を、
看護師さんは、
ゆっくり説明してくれた。
「娘の夫は、
今はまだ身柄を拘束されてるから、
すぐ娘に会いに来ることはできないって」
彼女が、
黙って聞いている。
「でも、
この状態がずっと続くとは限らないから、
今のうちに、
できる準備はしておいた方がいいって言われたの」
「準備って?」
彼女が聞いた。
看護師さんは、
指を折るようにしながら答えた。
「今まで住んでたマンションを、
これからどうするのか」
「うん」
「もし出るなら、
荷物をどうするのか」
そして、
少しだけ表情を引き締めた。
「でも、
一番大切なのは、
娘が何を望んでるのか。
それと、
娘の安全だって」
彼女が、
うなずいた。
「それからね……」
看護師さんは、
少し言いにくそうに続けた。
「私のことも、
少し気をつけた方がいいって」
彼女が、
すぐに顔を上げた。
「看護師さんのことも?」
「うん。
でも、
今何か起きてるっていう意味じゃないよ」
彼女の表情を見て、
看護師さんはすぐに付け加えた。
「念のため。
慎重にしておこうっていう話」
「そうなんですね……」
「私の周りで、
何か気になることがあったら、
すぐ警察に相談するようにって」
「はい」
「その時は、
元刑事さんも、
一緒に相談してくれるって」
私は、
黙って聞いていた。
看護師さんにまで、
何か起きる可能性がある。
そう考えると、
少し怖くなった。
すると、
看護師さんが言った。
「私もね、
最初に聞いた時は、
ちょっと怖くなったよ」
私を見る。
「でも、
何か起きるって決まったわけじゃないから」
「はい」
「元刑事さんも、
怖がらせたいんじゃなくて、
安全のことを先に考えておこうって、
そういう意味で話してくれたんだと思う」
看護師さんは、
静かに息を吐いた。
「隠さずに、
ちゃんと話してくれたことは、
ありがたかった」
そして、
少し笑った。
「一緒に警察へ相談するって言ってくれたしね」
その言葉を聞いて、
私も少しだけ、
肩の力が抜けた。
その時、
彼女が思い出したように言った。
「あっ」
「なに?」
「カフェのオーナーさんが、
サンドイッチ持ってきてくれたんです」
看護師さんが、
目を丸くした。
「えっ?」
「三人分」
「私の分まで?」
「はい」
「まだ食べてないの?」
彼女は、
ちょっと困ったような顔をした。
「なんとなく……
三人で食べようかなって」
看護師さんが、
私たちを見る。
「もう十二時前だよ」
「そうですね」
「待っててくれたの?」
「待ってたっていうか……」
彼女が、
言葉に詰まった。
私は、
思わず笑った。
「たぶん、
待ってました」
彼女が、
私を見る。
「言っちゃう?」
看護師さんも、
少し笑った。
「ありがとう」
私は、
テーブルの上のミックスジュースを見た。
氷は、
ほとんど溶けていた。
新しい氷を少しずつ入れて、
三人分を並べる。
彼女が、
サンドイッチのラップを外した。
ずいぶん遅い、
夜ご飯になった。
彼女が、
一つ手に取る。
「夜ご飯にサンドイッチっていうのも、
いいですね」
看護師さんも、
一口食べた。
「ほんとだね」
ミックスジュースを飲む。
「合うね。
おいしい」
しばらく、
三人で黙って食べた。
それから、
看護師さんが、
ふと思い出したように言った。
「私ね」
「はい?」
「今日、
初めて、
一人で祈ったんだよ」
私は、
手を止めた。
彼女も、
看護師さんを見る。
「一人で?」
「うん」
看護師さんは、
自分でも不思議そうに言った。
「誰かに、
祈ろうって言われたわけじゃないの」
「はい」
「気がついたら、
言葉が出てた」
私は、
あの時のことを思い出していた。
看護師さんが、
祈り方が分からないと言っていた日のことを。
「何て祈ったんですか?」
彼女が聞いた。
看護師さんは、
少し照れたように答えた。
「神様、
助けてください。
お守りくださいって」
彼女が、
やわらかく笑った。
看護師さんは、
ミックスジュースのグラスを見ながら続けた。
「祈りって、
不思議だね」
「不思議?」
「うん」
少し考えてから、
言った。
「うまく言えないんだけど……」
私たちは、
その続きの言葉を待った。
「独り言とは、
なんか違うんだよ」
その声は、
とても静かだった。
「誰かに向かって、
ちゃんと話してるっていう感じがした」
私は、
看護師さんの顔を見た。
嬉しいような、
少し照れているような、
そんな表情に見えた。
さっきまで、
胸の中にあった怖さが、
少しずつ薄くなっていく。
私は、
ミックスジュースを一口飲んだ。
氷の音が、
小さく鳴った。




