第210話 神様、助けてください
午後九時四十分。
看護師さんから、
彼女のスマホに連絡が入った。
「もしもし。
連絡が遅くなって、
ごめんね」
声は、
少し疲れていた。
でも、
さっき電話をもらった時よりは、
落ち着いているように聞こえた。
「おかげで、
娘とゆっくり話すことができました」
彼女が、
私を見る。
私は、
黙ってうなずいた。
「帰ったら、
ちゃんと報告させてもらうね」
「ゆっくり話せたなら、
よかったです」
彼女が答えた。
「あとで、
聞かせてください」
それから、
思い出したように続けた。
「あっ。
それと、
さっき元刑事さんから、
私に電話がありました」
「元刑事さんから?」
「はい。
看護師さんに連絡がつかなかったので、
伝えてほしいって」
「何て?」
「お話ししたいことがあるそうです。
遅くなってもいいから、
連絡してくださいって」
彼女は、
もう一つ付け加えた。
「それから、
カフェのオーナーさんも、
連絡がほしいって言ってました」
「ありがとう」
看護師さんの声が、
少しやわらいだ。
「分かった。
すぐに連絡するね」
「はい」
「じゃあ、
またあとで」
電話が切れた。
*
看護師さんは、
病院を出たあと、
元刑事さんに電話をかけた。
胸の奥には、
まだ少し、
落ち着かないものが残っていた。
「もしもし。
お世話になっております」
「はい」
「母親です。
お電話に出られなくて、
すみませんでした」
「いえいえ」
「今日、
先生の許可をいただいて、
娘に会ってきました」
「そうですか」
元刑事さんの声が、
少し明るくなった。
「娘さんに、
お会いになれたんですね」
「はい」
「それは、
よかったです」
看護師さんは、
静かに息を吐いた。
元刑事さんが続けた。
「お電話したのは、
詳しい捜査のことではありません」
「はい」
「娘さんの今後のことで、
少しお話ししておいた方がいいと思いまして」
看護師さんは、
歩く速度を少し緩めた。
「今は、
ご主人の身柄が拘束されていますから、
すぐに娘さんへ接触してくる心配はありません」
「はい」
「ただ、
この状態がずっと続くとは限りません」
看護師さんは、
何も言わず聞いていた。
「娘さんが退院したあと、
どこで暮らすのか」
「……はい」
「今まで住んでいた部屋へ戻るのか」
「それとも、
しばらく別の場所で暮らすのか」
元刑事さんの声は、
落ち着いていた。
「もちろん、
今すぐ決める必要はありません」
「はい」
「娘さんの気持ちを、
一番大切にしてください」
その言葉に、
看護師さんは、
少しだけ目を伏せた。
「ただ、
安全のことだけは、
先に考えておいた方がいいと思います」
「安全……」
「はい」
「以前、
ご主人が病院へ電話してきたことがありましたよね」
「はい」
「ですから、
退院後の居場所については、
少し慎重に考えた方がいいと思います」
看護師さんの背中に、
冷たいものが走った。
元刑事さんは、
すぐに続けた。
「怖がらせたいわけではありません」
「……はい」
「今のうちに、
準備できることだけしておきましょう、
という意味です」
看護師さんは、
少し安心したように、
息を吐いた。
「ありがとうございます」
「それと、
もう一つだけ確認してもいいですか?」
「はい」
「ご主人は、
お母様がどこの病院に勤めているか、
知っていますか?」
看護師さんは、
考えた。
「看護師だということは、
知っています」
「はい」
「でも、
病院名まで知っているかどうかは……」
「分からない?」
「はい」
「分かりました」
元刑事さんの声が、
少しだけ低くなった。
「今のところ、
何か起きているという話ではありません」
「はい」
「ただ、
娘さんだけじゃなく、
お母様の安全についても、
少し意識しておいた方がいいと思います」
「私の……」
「はい」
「もし、
知らない人から連絡が来たり、
病院の周りで気になることがあったり、
何か不自然なことを感じたら、
すぐに警察へ相談してください」
そして、
続けた。
「必要なら、
私も一緒に相談します」
看護師さんは、
しばらく黙っていた。
「……ありがとうございます」
「取り越し苦労なら、
それでいいんです」
元刑事さんの声が、
少しやわらかくなった。
「でも、
安全のことだけは、
先回りして考えておいてもいい」
「はい」
「娘さんのことも、
お母様のことも、
一人で抱えないでください」
その言葉が、
胸に残った。
「何かあったら、
必ず連絡します」
「はい。
それで大丈夫です」
「本当に、
ありがとうございます」
電話を切った。
看護師さんは、
しばらくスマホを握ったまま、
動かなかった。
そして、
そのスマホを、
そっと額に当てた。
「神様……」
声が出た。
自分でも、
少し驚いた。
「助けてください」
そして、
もう一度。
「お守りください」
誰かに教えてもらったわけでもない。
誰かに、
祈ろうと言われたわけでもない。
気がつけば、
自分から祈っていた。




