第208話 待つということ
午後一時十五分。
看護師さんは、
さっきから、
なんとなく落ち着かない様子だった。
時計を見たり、
バッグの中を確かめたりしている。
そして、
私を見た。
「あの……」
「はい?」
「あの、
昨日やってくれた、
『よろしくお願いします』っていうお祈り……」
ちょっと言いにくそうにしてから、
続けた。
「もう一回、
やってくれる?」
思わず、
看護師さんの顔を見た。
彼女も、
すぐに言った。
「私もやってみる。
一緒にやろう」
私は、
看護師さんの肩に、
そっと手を置いた。
「じゃあ……
お祈りします」
三人で、
目を閉じた。
「神様。
今日、
看護師さんと娘さんのことを、
よろしくお願いします」
昨日と、
ほとんど同じような祈りだった。
すると、
彼女が続けた。
「よろしくお願いします」
それだけだった。
キリスト教の番組で聞く、
牧師先生の祈りとは、
ずいぶん違う。
でも、
今は、
それでいいような気がした。
看護師さんが、
目を開けた。
「ありがとう」
そして、
バッグを持つ。
「じゃあ、
行ってくるね」
笑顔だった。
「帰ってきたら、
報告させてもらうから」
看護師さんが、
ドアに手をかけた。
その時、
彼女が呼び止めた。
「看護師さん」
「ん?」
「今日は……」
彼女は、
少し考えるようにしてから言った。
「娘さんの話を聞くことだけでも、
十分だと思います」
看護師さんが、
彼女を見る。
「何かを決めなくても、
答えを出さなくても」
彼女は続けた。
「今日は、
聞くだけでもいいんじゃないかなって」
看護師さんは、
目を伏せるようにして、
うなずいた。
「うん」
そして、
ももとカールを見た。
「二匹のこと、
頼むね」
「任せてください」
彼女が答えた。
看護師さんは、
もう一度私たちを見てから、
エレベーターの方へ歩いていった。
ドアが閉まる。
部屋には、
私と彼女と、
ももとカールだけが残った。
彼女は、
しばらくドアの方を見ていた。
それから、
私を見る。
さっきまでとは違う、
真剣な顔だった。
「私ね……」
「うん」
「娘さん、
夫と離れた方がいいんじゃないかって、
思ってる」
私は、
黙って聞いた。
「詳しいこと、
全部知ってるわけじゃないから、
こんなこと言っていいのか、
分からないけど……」
彼女の声が、
少し強くなった。
「暴力を受けて、
あそこまで追い詰められたんでしょ」
ももを見たまま、
言った。
「許せないよ」
私は、
彼女の横顔を見た。
私も、
同じような気持ちはあった。
でも、
口にした。
「離婚になりますようにって、
私たちが決めて祈るのは、
違う気がする」
彼女は、
私を見る。
「……うん」
私は続けた。
「娘さんが、
安全でいられること。
娘さん自身が、
自分でこれからのことを考えられること」
「うん」
「そのために、
助けてくださいって祈る方が、
いいんじゃないかな」
彼女は、
しばらく私を見ていた。
「そうだね」
声が、
少しやわらかくなった。
「その方がいいね」
私は、
彼女も同じようなことを考えていたことが、
少し嬉しかった。
それを、
私に隠さず話してくれたことも。
*
私たちは、
落ち着かない気持ちのまま、
看護師さんの帰りを待った。
午後六時を過ぎていた。
面会は、
午後三時からだった。
もう、
三時間以上経っている。
連絡はない。
彼女は、
ももを膝に抱いたまま、
何も言わず座っていた。
カールも、
床に伏せている。
その時、
ドアをノックする音がした。
彼女が、
ももを抱いたまま立ち上がる。
ドアを開けると、
一階のカフェのオーナーさんが立っていた。
手には、
袋と、
大きな容器を持っている。
「はい。
差し入れ」
中を見ると、
サンドイッチと、
ミックスジュースが三人分入っていた。
オーナーさんが、
部屋の中を見回した。
「あれ?
まだ帰ってないの?」
彼女が答えた。
「はい。
まだです」
「連絡は?」
「まだありません」
「そう……」
オーナーさんの表情が、
少し曇った。
「晩ご飯、
まだでしょ?」
袋を、
私たちに渡す。
「本当は、
焼き飯を作って持ってこようと思ったんだけど、
ご飯が切れちゃってて」
ちょっと困ったような顔をした。
「サンドイッチしかできなかったけど、
よかったら食べて」
「ありがとうございます」
彼女が、
頭を下げた。
オーナーさんは、
看護師さんがいない部屋を、
もう一度見た。
「帰ってきたら、
私にも電話するように言ってくれる?」
「分かりました。
伝えます」
彼女は、
少し姿勢を正した。
「あっ。
それと、
明日からよろしくお願いします」
オーナーさんの顔が、
明るくなった。
「こちらこそ。
よろしくね」
手を振って、
廊下を歩いていった。
ドアが閉まってから、
私は言った。
「感じのいい人だね」
「うん」
彼女が、
サンドイッチをテーブルに置く。
「看護師さんとは、
小学校から高校まで、
ずっと同じ学校だったんだって」
「そんなに長いんだ」
「うん。
このカフェのオーナーになったのも、
看護師さんに勧められたのが、
きっかけなんだって」
「へえ……」
私は、
閉じたドアを見た。
看護師さんには、
長い付き合いの人が、
ちゃんといるんだ。
なんとなく、
それが嬉しかった。
*
彼女が、
ももとカールのために、
ミルクと、
いつものドライフードを用意していた時だった。
スマホが鳴った。
彼女が、
すぐに画面を見る。
「看護師さんだ」
電話に出た。
「もしもし」
私は、
彼女の顔を見た。
スマホから、
看護師さんの声が、
かすかに聞こえた。
「もう少し……
遅くなりそうなの」
明るい声ではなかった。
彼女は、
何も聞き返さなかった。
「はい」
それだけ答えた。
電話は、
すぐに切れた。
彼女は、
スマホの画面を見たまま、
しばらく動かなかった。
私は、
何も聞かなかった。
カールが、
こちらを見ていた。
ももは、
まだ彼女の足元にいた。
部屋の中に、
さっきまでより、
少し重い空気が流れていた。




